亀田藩資料

戸田山城守忠昌奉書
御状令(せしめ)被見候(そろ)
公方様益御機嫌
能被成御座近年之内
日光山可被遊
御参詣由被仰出之
目出度被存旨得其意候
紙面之趣各申談
可及言上候恐々謹言
戸田山城守
閏二月十二日
忠昌 花押

岩城伊豫守殿
戸田山城守忠昌▽ 戸田忠昌 とだ-ただまさ (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
1632-1699 江戸時代前期の大名。 寛永9年生まれ。戸田忠継(ただつぐ)の長男。
伯父(おじ)の三河(愛知県)田原藩主戸田忠能(ただよし)の養嗣子となり,跡をつぐ。

肥後富岡藩主,武蔵(むさし)岩槻(いわつき)藩主をへて,貞享(じょうきょう)3年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主戸田家初代。
その間,寺社奉行,京都所司代,老中とすすんだ。元禄(げんろく)12年9月10日死去。68歳。初名は忠治。
岩城伊豫守▽(大名家情報 - 武鑑全集) 大名当主名(現代通称) 岩城隆恕(いわき たかのり)大名当主名(武鑑表記) 岩城伊予守隆恕 藩名(現代通称) 亀田 居城地(武鑑表記) 羽州由利郡亀田 領知高(単位:石) 20,000

松平右京太夫奉書
御状令被見候
公方様益御機嫌
能被成御座去月
廿三日日光御門跡同廿五日
護持院被為成候儀
被承之恐悦旨尤候
紙面之趣得其意候
恐々謹言   松平右京大夫
十二月廿五日 輝貞 花押
       松平美濃守
       吉保 花押
岩城采女殿
松平輝貞まつだいら・てるさだ▽ (大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典)
  • 生没 1665(寛文5)-1747(延享4)
  • 家系 大河内(松平)氏
  • 実父 松平輝綱
  • 実母 板倉重宗女
  • 別称 松平右京大夫 まつだいら・うきょうのだいぶ、大河内輝貞
    略伝 徳川綱吉の側用人。1691(元禄4)年に伯父の京都所司代松平信興の急養子となり、翌年には下野壬生藩主となる。
    幼時より将軍徳川家綱・綱吉の側近くに仕え、特に綱吉に目をかけられ、1694(元禄7)年に1万石加増、その翌年には1万石の加増で上野高崎へ転じ、その後、さらに2万石の加増があった。綱吉没後の1710(宝永7)年に越後村上へ転封となるが、1717(享保2)年に高崎に再封。
    その後、将軍徳川吉宗に重用されて1730(享保15)年には老中格に任ぜられた。なお、綱吉の側衆であったため、終生「生類憐みの令」を固く守ったことで知られている。
    柳沢吉保▽朝日日本歴史人物事典 没年:正徳4.11.2(1714.12.8) 生年:万治1(1658) 江戸中期の幕臣,大名。
    通称は主税,弥太郎。諱は初め房安,保明。初め幕臣,のち徳川綱吉に付属して館林藩士となった安忠の子。
    延宝3(1675)年父の家督(知行160石,廩米370俵)を相属して綱吉に仕え,焼成組を務めた。8年綱吉の将軍家相続に伴って幕臣に加えられ,小何度となった。天和1改められて830石を知行す。
    貞享1(1684)年200石加増。翌2年従五位下出羽守に叙任され,3年にも1000石加増。
    元禄1(1688)年側用人に昇進して1万石を加増され,大名に取り立てられた。3年2万石,5年3万石,7年にも1万石を加増されて7万2030石を領し,武蔵国川越城主となった。
    その間,3年に従四位下に昇り,7年には初めて評定の席に出座を許され,侍従に任じ,老中格に昇進。10年2万石加増。翌11年には左近衛少将に任ぜられて老中より上席となり,14年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の諱の1字を与えられて美濃守吉保と称した。
    元禄15年にも2万石加増。宝永1(1704)年には,綱吉が甲府藩主徳川家宣を継嗣に定めたときの功労により3万9200石余を加増され,家宣の旧領であった甲斐・駿河両国のうち15万1200石余を賜った。
    さらに翌2年,駿河国の領知を甲斐国のうちに移されて山梨・八代・巨摩3郡一円を領することになったが,その実高は22万8700石余にもおよんでいた。
    宝永6年綱吉の死後隠居し,駒込の別荘六義園(東京都文京区)で没した。異例の出世をしたため,権勢欲の強い人と思われがちであるが,むしろ誠実な人柄で,その出世は,毀誉褒貶の激しい綱吉に忠勤第一に仕えた結果とみられる。
    元禄3年当時の諸大名を調査し編纂した『土芥寇讎記』という書にも,「信アレバ徳アル故ニ,上意ニモ叶ヒ,家繁昌スト見ヘタリ」と記載されている。
    岩城采女▽(Wikipedia)
  • 時代 江戸時代前期 - 中期
  • 生誕 延宝元年(1673年)
  • 死没 享保3年10月25日(1718年11月17日)
  • 別名 通称:采女
  • 戒名 常心院知観道光
  • 墓所 秋田県由利本荘市岩城(旧由利郡岩城町)の竜門寺
  • 官位 従五位下・伊予守
  • 幕府 江戸幕府
  • 主君 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗
  • 藩  出羽亀田藩主 氏族 岩城氏
  • 父母 父:岩城景隆、母:小笠原長次娘
  • 妻  正室:松平忠充娘(後離縁) 継室:齢松院白峯寒月(内藤忠政娘)
  • 子  千次郎、栄次郎、女子 養子:隆韶(伊達村興子)
  • 平松右近将監奉書
    御状令被見候
    公方様
    大納言様益
    御機嫌能被成御座
    當月二日
    大納言様御〔袖?〕被為留候段
    被承之目出度被存由
    得其意候紙面之趣各申談
    可及言上候恐々謹言

        松平右近将監 武元
    五月廿五日
        岩城左京亮殿
    松平武元 まつだいら・たけちか ▽ 朝日日本歴史人物事典
  • 没年:安永8.7.25(1779.9.5)
  • 生年:正徳3(1713)
  •  江戸中期の幕府老中。幼名は源之進,右近将監(うこんのしょうげん)と称す。
    松平播磨守頼明の次男で,享保13(1728)年に松平(越智)武雅の臨終に養子となり陸奥国棚倉5万4000石を領した。元文4(1739)年に奏者番,延享1(1744)年に寺社奉行を兼ねた。
    8代将軍徳川吉宗は武元の人物を見込んで,同2年の隠退に際して武元を特に招き,後事を託し将軍家重を輔翼すべきことを懇命した。
    3年5月に西丸老中に任ぜられ,城地を館林に移された。翌4年9月に老中に補せられ,それより家重,家治将軍の下で幕閣にあって重きをなした。
    田沼意次もまた武元存命中はこれに敬意を示して,あえて威権を振るうことがなかった。明和1(1764)年に老中首座に進み同6年には加増を受けて6万1000石を給された。
    秋元但馬守奉書
    為端午之御祝儀
    以使者御帷子単物
    進上之候遂披露
    候之処一段之仕合候
    恐々謹言
        秋元但馬守
    涼朝(すみもと)
        花押
    五月四日

    岩城伊豫守殿
    秋元凉朝 あきもとすけとも▽Wikipedia
  • 生誕 享保2年(1717年)
  • 死没 安永4年5月25日(1775年6月22日)
  • 改名 員朝(初名)→凉朝
  • 別名 萬四郎、右衛門、一学、図書(通称)、休弦(号)
  • 戒名 化城院殿休弦凉朝大居士
  • 墓所 東京都台東区の護国院 群馬県前橋市の光厳寺
  • 官位 従五位下摂津守、但馬守(たじまのかみ)、従四位下侍従、壱岐守
  • 幕府 江戸幕府 奏者番、寺社奉行、西の丸若年寄、西の丸老中、本丸老中
  • 藩 武蔵国川越藩主→出羽国山形藩主
  • 氏族 秋元氏
  • 父母 父:秋元貞朝、養父:秋元喬求
  • 兄弟 貞栄、上田義当、凉朝
  • 子 娘(阿部正陳正室)、養子:逵朝、永朝、養女(秋田延季娘、京極高中正室)
  • 岩城伊豫守▽(大名家情報 - 武鑑全集)
  • 岩城伊豫守 (大名家情報 - 武鑑全集)
  • 大名当主名(現代通称)
  • 岩城隆恕(いわき たかのり)大名当主名(武鑑表記)
  • 岩城伊予守隆恕 藩名(現代通称)
  • 亀田 居城地(武鑑表記)
  • 羽州由利郡亀田 領知高(単位:石) 20,000

  • 佐竹右京太夫領分村替え
     六月十一日御用番
     水野出羽守様より(合体文字)
     御留(守)居
     御呼出二而(にて)被仰渡候御書附
              佐竹右京大夫
    八百三拾三石余出羽國之内江(え)
    高替を以村替被
    仰付候委細之儀者(は)御勘定
    奉行江可被證候
    佐岩城領村替
        岩城伊豫守
    其方領分出羽國
    仙北郡之内高四百
    七拾三石餘同國同郡
    大沢郷之内高三百五石餘与(と)
    物成諸を以村替被
    仰付候委細之儀者(は)
    御勘定奉行
    可被談候
    出火之節大消定1-1
    出火之節火消定

    今町出火之節防
      大町・中町・肴町・大工町之者
    新町出火之節防
      中町・肴町・大工町之者
    大町出火之節防
      今町・肴町・大工町之者

    右之外御家中御徒士町並
    惣組之川前通其外
    寺社出火之節ハ不残
    出火之節大消定1-2
    馳付防可申候尤印之籏
    御渡被成候若(もし)
    近所風下二(に)
    候ハバ大目付江(え)
    断(ことわり)引取
    可申候自然不参ふ精
    之者在之候ハバ肝煎始
    丁代組頭迄御吟味之上
    急度可被仰付候事


     正月日
    大阪廻米船 1-1
     大坂廻米船雇並着船
     米請取拂方之覚
    一、運賃米百石 二付何拾何石
     何斗宛定
     但船壱艘切積石之内二而(にて)
     運賃米相渡ス
     但年之運賃高下在之候
    一、船揚米請取方
     但届米本俵計(ばかり)
     貫目ハ稼石二而(にて)打量相定
     何斗宛定
     但船壱艘切積石之内二而(にて)

     平均貫目二而請取在所米
     四斗入二而貫目相渡候二付
     右貫目通過不足ハ船頭
     勘定廻シ之儀者(は)蔵入之節
     内廻シ致見申候尤百俵之内より
    (合体文字)
     弐拾俵宛(ずつ・つ゛つ)
     鬮取(くじとり)貫目廻シ共二
     相改申候事
    一、拂方
     但弐俵石二而何拾目〇廻シ
     何程有之候共相立不申候
    大阪廻米船 1-2
    一、入札張紙 何千俵
     但一切五百俵宛入札尤入札
     致候節札一通二(に)敷銀何程
     被申候事大坂定有之候

    一、口銭米壱石二付(につき)
     三分宛(ずつ)
     但届ヶ米石高

    一、差米壱石二付(につき)
     三合宛(ずつ)
     但船揚之節蔵入懸物
     此方構無之候
     右之通御座候
     何斗宛定
     四月
     浅野土佐守処江戸二相勤候元〆役
           柳下忠左衛門殿
     浅野土佐守処御米賣立御役人
           杦山久大夫殿
    口上手拓 1-1
       口上手扣
     今般下愚の鄙(ひな)裏不堪
     恐縮奉存候得共今日之上
     御國情人心慰愉之一端二茂(にも)
     可相成哉奉存候二付(につき)領分中
     前々より(合体文字)差置候役場其々役
     銭取立来候分對
     御國中以後総而(いごそうじて)廃止申付候
     則箇所左之通
    一、大正寺川
    一、新和村
    一、石脇村
    一、新澤村
    口上手拓 1-2
    右領分中五箇所総而(そうじて)役銭
    廃止申付候上者(うえは)通船ハ勿論
    諸商人二(に)至り
    御國内同様往来聊差障(いささかもさしさわり)
    無之就而者(これなくついては)往々
    御國改奉體認〇同國御同様
    奉蒙

    御一視之御仁澤度志願罷
    在候何卒之
    御憐察(ごれんさつ)前日歎願仕置候一
    條並下氏二至り共倶
    御宥免被成下置候幾重二茂(いくえにも)奉懇願候宜御聞済御取扱
    被下候仕度猶以口頭具二(つぶさに)
    奉申上候
      六月
    行政官金札通用之沙汰 1-1
    御一新後萬國
    貨幣之釣合ヲ以て
    並銭始浪銭等夫二(に)
    直増通行御定被
    仰出候處其國所二(に)
    於而(おいて)心得違之者共
    十二文通行之處或ハ(あるいは)
    六文或ハ八文位二(に)取引
    致し其二(に)準じ浪銭
    等二(に)至迄御定通二(に)

    通用ふ致趣相聞へ
    以之外之事二候
    (もってのほかのことに候)元来
    被下候仕度猶以口頭具二
    (つぶさに)奉申上候
    貨幣之儀ハ僻境
    遐陬二(かすうに)
    <意味:都から遠く離れた片田舎。僻地。>
    至迄不一様
    候而ハ(そうろうては)
    ふ相済事二(に)付
    行政官金札通用之沙汰 1-2
    先達而(せんだって)金札通用
    向二付而も(むきについても)厳敷(きびしく)被
    仰出候通府藩縣
    二於い而(において)厳重二(に)取調
    天下一圓定額之通
    通用可致様
    御沙汰候
    十月   行政官
    行政官亀田藩重臣沙汰
        龜田藩
          重臣
    其藩舊領別紙郷村
    高帳之通今般佐竹
    右京大夫へ取締被
    仰付候間早々地所
    引渡シ可申旨
    御沙汰候事
     十二月 行政官
    岩城隆邦寄進状 1-1
    君等我カ祖先累
    世子育ノ恩ヲ忘
    レス有志相謀テ許
    多(許多:あまた)ノ金圓ヲ醵シ或ハ
    親ラ(自ら)労役二服シ斯二
    一社ヲ建設シ上請シ
    テ天鷺神社ト號シ

    永ク祖先ノ霊ヲ祭ラ
    ントス今ヤ営造既二
    竣ルヲ以テ日ヲ卜(ぼく)シテ
    将サ二遷霊ノ式ヲ施
    行セントス仍テ我カ家
    傳フル所ノ丸龍鎧
    岩城隆邦寄進状 1-2
    兜ヲ寄附セン事(合体文字)ヲ請
    ハル厚意ノ至感謝
    二堪ヘス即チ請二従
    テ右鎧兜並幣帛
    料金三十圓ヲ寄進
    ス冀クハ(こいねがわくは)微志ヲ領シ
    収受セラレン事(合体文字)ヲ不

     明治十一年九月
         岩城隆邦

     鵜沼國豪殿
     吉田倶之殿
     渡邉達五殿
     長谷川忠利殿
    明治2年岩城隆邦懇願書
    今般隆邦様御儀格別
    御寛典之以
    天恩御爵位更下賜難有仕合奉感戴候然處(しかるところ)藩知事
    御職者(は)亀五郎様兼而被蒙
    仰候得共當今之御時勢御幼稚之藩知事様ニテハ萬事御指揮
    御行届不被成且亦藩士共元ヨリ頑愚御座候得者(ば)日夜苦心管
    罷在候就テハ何卒
    御尊藩之御仁恤御救助ヲ以隆邦様エ藩知事御職務被蒙

    仰候様仕度ト一藩挙テ
    御役人中様迄奉懇願候右為惣代私共昇(環境依存文字の為・現代語にて表示)
    國仕候間格別之以
    御仁憐宜敷
    御指揮被成下置候様只管(ひたすら)奉懇願候恐悦頓首
      明治巳巳年十二月  亀田藩士
                大塚成賢 墨印
                岩城隆知 墨印