亀田藩資料
戸田山城守忠昌奉書
1632-1699 江戸時代前期の大名。 寛永9年生まれ。戸田忠継(ただつぐ)の長男。
伯父(おじ)の三河(愛知県)田原藩主戸田忠能(ただよし)の養嗣子となり,跡をつぐ。
肥後富岡藩主,武蔵(むさし)岩槻(いわつき)藩主をへて,貞享(じょうきょう)3年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主戸田家初代。
その間,寺社奉行,京都所司代,老中とすすんだ。元禄(げんろく)12年9月10日死去。68歳。初名は忠治。
松平右京太夫奉書
生没 1665(寛文5)-1747(延享4)
家系 大河内(松平)氏
実父 松平輝綱
実母 板倉重宗女
別称 松平右京大夫 まつだいら・うきょうのだいぶ、大河内輝貞
略伝 徳川綱吉の側用人。1691(元禄4)年に伯父の京都所司代松平信興の急養子となり、翌年には下野壬生藩主となる。
幼時より将軍徳川家綱・綱吉の側近くに仕え、特に綱吉に目をかけられ、1694(元禄7)年に1万石加増、その翌年には1万石の加増で上野高崎へ転じ、その後、さらに2万石の加増があった。綱吉没後の1710(宝永7)年に越後村上へ転封となるが、1717(享保2)年に高崎に再封。
その後、将軍徳川吉宗に重用されて1730(享保15)年には老中格に任ぜられた。なお、綱吉の側衆であったため、終生「生類憐みの令」を固く守ったことで知られている。
通称は主税,弥太郎。諱は初め房安,保明。初め幕臣,のち徳川綱吉に付属して館林藩士となった安忠の子。
延宝3(1675)年父の家督(知行160石,廩米370俵)を相属して綱吉に仕え,焼成組を務めた。8年綱吉の将軍家相続に伴って幕臣に加えられ,小何度となった。天和1改められて830石を知行す。
貞享1(1684)年200石加増。翌2年従五位下出羽守に叙任され,3年にも1000石加増。
元禄1(1688)年側用人に昇進して1万石を加増され,大名に取り立てられた。3年2万石,5年3万石,7年にも1万石を加増されて7万2030石を領し,武蔵国川越城主となった。
その間,3年に従四位下に昇り,7年には初めて評定の席に出座を許され,侍従に任じ,老中格に昇進。10年2万石加増。翌11年には左近衛少将に任ぜられて老中より上席となり,14年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の諱の1字を与えられて美濃守吉保と称した。
元禄15年にも2万石加増。宝永1(1704)年には,綱吉が甲府藩主徳川家宣を継嗣に定めたときの功労により3万9200石余を加増され,家宣の旧領であった甲斐・駿河両国のうち15万1200石余を賜った。
さらに翌2年,駿河国の領知を甲斐国のうちに移されて山梨・八代・巨摩3郡一円を領することになったが,その実高は22万8700石余にもおよんでいた。
宝永6年綱吉の死後隠居し,駒込の別荘六義園(東京都文京区)で没した。異例の出世をしたため,権勢欲の強い人と思われがちであるが,むしろ誠実な人柄で,その出世は,毀誉褒貶の激しい綱吉に忠勤第一に仕えた結果とみられる。
元禄3年当時の諸大名を調査し編纂した『土芥寇讎記』という書にも,「信アレバ徳アル故ニ,上意ニモ叶ヒ,家繁昌スト見ヘタリ」と記載されている。
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝元年(1673年)
死没 享保3年10月25日(1718年11月17日)
別名 通称:采女
戒名 常心院知観道光
墓所 秋田県由利本荘市岩城(旧由利郡岩城町)の竜門寺
官位 従五位下・伊予守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗
藩 出羽亀田藩主 氏族 岩城氏
父母 父:岩城景隆、母:小笠原長次娘
妻 正室:松平忠充娘(後離縁) 継室:齢松院白峯寒月(内藤忠政娘)
子 千次郎、栄次郎、女子 養子:隆韶(伊達村興子)
平松右近将監奉書
没年:安永8.7.25(1779.9.5)
生年:正徳3(1713)
江戸中期の幕府老中。幼名は源之進,右近将監(うこんのしょうげん)と称す。
松平播磨守頼明の次男で,享保13(1728)年に松平(越智)武雅の臨終に養子となり陸奥国棚倉5万4000石を領した。元文4(1739)年に奏者番,延享1(1744)年に寺社奉行を兼ねた。
8代将軍徳川吉宗は武元の人物を見込んで,同2年の隠退に際して武元を特に招き,後事を託し将軍家重を輔翼すべきことを懇命した。
3年5月に西丸老中に任ぜられ,城地を館林に移された。翌4年9月に老中に補せられ,それより家重,家治将軍の下で幕閣にあって重きをなした。
田沼意次もまた武元存命中はこれに敬意を示して,あえて威権を振るうことがなかった。明和1(1764)年に老中首座に進み同6年には加増を受けて6万1000石を給された。
秋元但馬守奉書
生誕 享保2年(1717年)
死没 安永4年5月25日(1775年6月22日)
改名 員朝(初名)→凉朝
別名 萬四郎、右衛門、一学、図書(通称)、休弦(号)
戒名 化城院殿休弦凉朝大居士
墓所 東京都台東区の護国院 群馬県前橋市の光厳寺
官位 従五位下摂津守、但馬守(たじまのかみ)、従四位下侍従、壱岐守
幕府 江戸幕府 奏者番、寺社奉行、西の丸若年寄、西の丸老中、本丸老中
藩 武蔵国川越藩主→出羽国山形藩主
氏族 秋元氏
父母 父:秋元貞朝、養父:秋元喬求
兄弟 貞栄、上田義当、凉朝
子 娘(阿部正陳正室)、養子:逵朝、永朝、養女(秋田延季娘、京極高中正室)
岩城伊豫守 (大名家情報 - 武鑑全集)
大名当主名(現代通称)
岩城隆恕(いわき たかのり)大名当主名(武鑑表記)
岩城伊予守隆恕 藩名(現代通称)
亀田 居城地(武鑑表記)
羽州由利郡亀田 領知高(単位:石) 20,000
佐竹右京太夫領分村替え
佐岩城領村替
出火之節大消定1-1
出火之節大消定1-2
大阪廻米船 1-1
口上手拓 1-1
口上手拓 1-2
行政官亀田藩重臣沙汰
岩城隆邦寄進状 1-1
岩城隆邦寄進状 1-2
明治2年岩城隆邦懇願書
御状令(せしめ)被見候(そろ)
公方様益御機嫌 能被成御座近年之内 日光山可被遊 御参詣由被仰出之 目出度被存旨得其意候 紙面之趣各申談 可及言上候恐々謹言 戸田山城守 閏二月十二日 忠昌 花押 岩城伊豫守殿 |
戸田山城守忠昌▽
戸田忠昌 とだ-ただまさ (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)1632-1699 江戸時代前期の大名。 寛永9年生まれ。戸田忠継(ただつぐ)の長男。
伯父(おじ)の三河(愛知県)田原藩主戸田忠能(ただよし)の養嗣子となり,跡をつぐ。
肥後富岡藩主,武蔵(むさし)岩槻(いわつき)藩主をへて,貞享(じょうきょう)3年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主戸田家初代。
その間,寺社奉行,京都所司代,老中とすすんだ。元禄(げんろく)12年9月10日死去。68歳。初名は忠治。
岩城伊豫守▽(大名家情報 - 武鑑全集)
大名当主名(現代通称) 岩城隆恕(いわき たかのり)大名当主名(武鑑表記) 岩城伊予守隆恕 藩名(現代通称) 亀田 居城地(武鑑表記) 羽州由利郡亀田 領知高(単位:石) 20,000松平右京太夫奉書
御状令被見候
公方様益御機嫌 能被成御座去月 廿三日日光御門跡同廿五日 護持院被為成候儀 被承之恐悦旨尤候 紙面之趣得其意候 恐々謹言 松平右京大夫 十二月廿五日 輝貞 花押 松平美濃守 吉保 花押 岩城采女殿 |
松平輝貞まつだいら・てるさだ▽
(大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典)略伝 徳川綱吉の側用人。1691(元禄4)年に伯父の京都所司代松平信興の急養子となり、翌年には下野壬生藩主となる。
幼時より将軍徳川家綱・綱吉の側近くに仕え、特に綱吉に目をかけられ、1694(元禄7)年に1万石加増、その翌年には1万石の加増で上野高崎へ転じ、その後、さらに2万石の加増があった。綱吉没後の1710(宝永7)年に越後村上へ転封となるが、1717(享保2)年に高崎に再封。
その後、将軍徳川吉宗に重用されて1730(享保15)年には老中格に任ぜられた。なお、綱吉の側衆であったため、終生「生類憐みの令」を固く守ったことで知られている。
柳沢吉保▽朝日日本歴史人物事典
没年:正徳4.11.2(1714.12.8) 生年:万治1(1658) 江戸中期の幕臣,大名。通称は主税,弥太郎。諱は初め房安,保明。初め幕臣,のち徳川綱吉に付属して館林藩士となった安忠の子。
延宝3(1675)年父の家督(知行160石,廩米370俵)を相属して綱吉に仕え,焼成組を務めた。8年綱吉の将軍家相続に伴って幕臣に加えられ,小何度となった。天和1改められて830石を知行す。
貞享1(1684)年200石加増。翌2年従五位下出羽守に叙任され,3年にも1000石加増。
元禄1(1688)年側用人に昇進して1万石を加増され,大名に取り立てられた。3年2万石,5年3万石,7年にも1万石を加増されて7万2030石を領し,武蔵国川越城主となった。
その間,3年に従四位下に昇り,7年には初めて評定の席に出座を許され,侍従に任じ,老中格に昇進。10年2万石加増。翌11年には左近衛少将に任ぜられて老中より上席となり,14年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の諱の1字を与えられて美濃守吉保と称した。
元禄15年にも2万石加増。宝永1(1704)年には,綱吉が甲府藩主徳川家宣を継嗣に定めたときの功労により3万9200石余を加増され,家宣の旧領であった甲斐・駿河両国のうち15万1200石余を賜った。
さらに翌2年,駿河国の領知を甲斐国のうちに移されて山梨・八代・巨摩3郡一円を領することになったが,その実高は22万8700石余にもおよんでいた。
宝永6年綱吉の死後隠居し,駒込の別荘六義園(東京都文京区)で没した。異例の出世をしたため,権勢欲の強い人と思われがちであるが,むしろ誠実な人柄で,その出世は,毀誉褒貶の激しい綱吉に忠勤第一に仕えた結果とみられる。
元禄3年当時の諸大名を調査し編纂した『土芥寇讎記』という書にも,「信アレバ徳アル故ニ,上意ニモ叶ヒ,家繁昌スト見ヘタリ」と記載されている。
岩城采女▽(Wikipedia)
御状令被見候
公方様 大納言様益 御機嫌能被成御座 當月二日 大納言様御〔袖?〕被為留候段 被承之目出度被存由 得其意候紙面之趣各申談 可及言上候恐々謹言 松平右近将監 武元 五月廿五日 岩城左京亮殿 |
松平武元 まつだいら・たけちか ▽
朝日日本歴史人物事典松平播磨守頼明の次男で,享保13(1728)年に松平(越智)武雅の臨終に養子となり陸奥国棚倉5万4000石を領した。元文4(1739)年に奏者番,延享1(1744)年に寺社奉行を兼ねた。
8代将軍徳川吉宗は武元の人物を見込んで,同2年の隠退に際して武元を特に招き,後事を託し将軍家重を輔翼すべきことを懇命した。
3年5月に西丸老中に任ぜられ,城地を館林に移された。翌4年9月に老中に補せられ,それより家重,家治将軍の下で幕閣にあって重きをなした。
田沼意次もまた武元存命中はこれに敬意を示して,あえて威権を振るうことがなかった。明和1(1764)年に老中首座に進み同6年には加増を受けて6万1000石を給された。
為端午之御祝儀
以使者御帷子単物 進上之候遂披露 候之処一段之仕合候 恐々謹言 秋元但馬守 涼朝(すみもと) 花押 五月四日 岩城伊豫守殿 |
秋元凉朝 あきもとすけとも▽Wikipedia
岩城伊豫守▽(大名家情報 - 武鑑全集)
佐竹右京太夫領分村替え
六月十一日御用番
水野出羽守様より(合体文字) 御留(守)居 御呼出二而(にて)被仰渡候御書附 佐竹右京大夫 八百三拾三石余出羽國之内江(え) 高替を以村替被 仰付候委細之儀者(は)御勘定 奉行江可被證候 |
岩城伊豫守
其方領分出羽國 仙北郡之内高四百 七拾三石餘同國同郡 大沢郷之内高三百五石餘与(と) 物成諸を以村替被 仰付候委細之儀者(は) 御勘定奉行 可被談候 |
出火之節火消定
今町出火之節防 大町・中町・肴町・大工町之者 新町出火之節防 中町・肴町・大工町之者 大町出火之節防 今町・肴町・大工町之者 右之外御家中御徒士町並 惣組之川前通其外 寺社出火之節ハ不残 |
馳付防可申候尤印之籏
御渡被成候若(もし) 近所風下二(に) 候ハバ大目付江(え) 断(ことわり)引取 可申候自然不参ふ精 之者在之候ハバ肝煎始 丁代組頭迄御吟味之上 急度可被仰付候事 己 正月日 |
一、入札張紙 何千俵
但一切五百俵宛入札尤入札 致候節札一通二(に)敷銀何程 被申候事大坂定有之候 一、口銭米壱石二付(につき) 三分宛(ずつ) 但届ヶ米石高 |
一、差米壱石二付(につき)
三合宛(ずつ) 但船揚之節蔵入懸物 此方構無之候 右之通御座候 何斗宛定 四月 浅野土佐守処江戸二相勤候元〆役 柳下忠左衛門殿 浅野土佐守処御米賣立御役人 杦山久大夫殿 |
口上手扣
今般下愚の鄙(ひな)裏不堪 恐縮奉存候得共今日之上 御國情人心慰愉之一端二茂(にも) 可相成哉奉存候二付(につき)領分中 前々より(合体文字)差置候役場其々役 銭取立来候分對 御國中以後総而(いごそうじて)廃止申付候 則箇所左之通 一、大正寺川 一、新和村 一、石脇村 一、新澤村 |
先達而(せんだって)金札通用
向二付而も(むきについても)厳敷(きびしく)被 仰出候通府藩縣 二於い而(において)厳重二(に)取調 天下一圓定額之通 通用可致様 御沙汰候 十月 行政官 |
龜田藩
重臣 其藩舊領別紙郷村 高帳之通今般佐竹 右京大夫へ取締被 仰付候間早々地所 引渡シ可申旨 御沙汰候事 十二月 行政官 |
君等我カ祖先累 世子育ノ恩ヲ忘 レス有志相謀テ許 多(許多:あまた)ノ金圓ヲ醵シ或ハ 親ラ(自ら)労役二服シ斯二 一社ヲ建設シ上請シ テ天鷺神社ト號シ |
永ク祖先ノ霊ヲ祭ラ
ントス今ヤ営造既二 竣ルヲ以テ日ヲ卜(ぼく)シテ 将サ二遷霊ノ式ヲ施 行セントス仍テ我カ家 傳フル所ノ丸龍鎧 |
兜ヲ寄附セン事(合体文字)ヲ請
ハル厚意ノ至感謝 二堪ヘス即チ請二従 テ右鎧兜並幣帛 料金三十圓ヲ寄進 ス冀クハ(こいねがわくは)微志ヲ領シ 収受セラレン事(合体文字)ヲ不 宣 明治十一年九月 岩城隆邦 |
鵜沼國豪殿
吉田倶之殿 渡邉達五殿 長谷川忠利殿 |