墓参り(動画)


柳沢栄から中田愛に宛てた書簡

〇 龍門寺墓参り
1990年、中田勝平夫妻が秋田県由利郡岩城町を訪問。岩城町史料館に、中田直慈、上野季三郎が顕彰されていることを知る。次いで、龍門寺を訪れ、曽平以前の先祖に初めて墓石を通して見える。
中田直吉夫婦、直吉の子、中田曽平夫婦、中田大助夫婦、長翁義久居士夫婦、夲然情空大姉の墓基が枠に囲まれているが、このように整備したのは直吉妻、志那だという。枠の左外には、中田曽兵衛夫婦の墓をはじめ、数基が並んでいる。現在、これらの墓を守っているのは、直吉の曾孫にあたる冨地信弘氏。

亀田藩主岩城家の菩提寺として篤く庇護されてきた龍門寺だが、何度も大きな火災にあい、現在の本堂は昭和35年(1960)に建てられ、過去帳には短絡ヵ所はみられるものの、この訪問で龍門寺に現存する中田家の新たな過去帳を手にする。

秋田県龍門寺・中田家 〇 砂子田家墓参り
1990年、光照寺 (盛岡市本町) 内墓地での砂子田家墓参りの様子。砂子田セイ(水色の服)、吉田仲子 (青い服) 、卓男妻砂子田ミホ子 (赤い服) の案内があった。ここでお参りされているのは砂子田茂兵衛を初代とする墓基であり、茂吉夫婦、泰三郎等が祀られている。他に2ヶ所、砂子田家の墓がある。
1つは、源六、源吉と続く本家の墓。他の1つは、最近自ら建立した、砂子田哲夫 (分家初代) の墓。

砂子田・吉田・中田

後列
向かって左(白いドレス)砂子田ミホ子
遠藤親子 向井敦子
向かって右 吉田仲子 前列不明

〇 神奈川県逗子市小坪の中田瑞彦夫妻を訪問
1990年、小坪の中田瑞彦夫婦宅を訪問。直慈直筆の書を見せて頂いた。四郎はこの小坪で母親と過ごしていた時期があり、逗子開成中学に通った。
四郎の本籍は逗子になっている。

中田本家

〇 三田義治夫妻訪問
1990年、東京渋谷の三田家を訪問。三田信之 (義幸の弟)の子とその母親が遊びにきていたと思われる。

三田家  
〇 冨地家との面会
1990年、盛岡の料亭で、冨地なほ (直吉の孫)、冨地信和(直吉の曾孫、盛岡在住) 、冨地信和妻と面会したときの様子。「冨地なほ」は、出生と同時に中田家の養女となり、「中田なほ」として育った。
中田直吉の一人娘、中田マキが宮崎家に嫁ぐ条件として、第一子を中田家の養子にする約束をしたからだ。しかし、「中田なほ」が冨地家に嫁いだことで、中田家は廃家となった。映像にある冨地信和氏は、兄、信弘 (東京在住) と共に、冨地家の墓 (長応寺)と中田家の墓 (龍門寺) の両方を守っている方。

富地家
なほさんからの手紙

冨地信弘の写真
 
〇 三須家訪問
中田勝平夫婦の仲人である三須家を訪問したときの様子。
三須家

〇秋田県岩城歴史民俗資料館 旅行(勝平・揚子)
秋田県岩城歴史民俗資料館

天鷺村史料館パンフレット

〇 青山墓地墓参り
1990年、青山墓地での墓参りの様子。中田輝男、向井みどりの案内により中田勝平夫妻が参加。中田直慈夫婦、中田文雄、中田三郎、中田薫夫妻、中田瑞彦の墓をお参りした。ついで、牧野伸顕 (吉田茂の岳父) の墓(大きな自然石)、吉田茂の墓(カトリック式)、三田家の墓をお参りした。
ここのご先祖様の菩提寺は、西麻布にある繁成寺 (浄土宗)。三田家は定則・トミ・義勝・義治以外のご先祖のお墓は盛岡市の報恩寺にある。
真如院興空妙期大姉 利佐 明治35年9月12日 35歳
真心一如居士  養子(次郎)昭和24年5月18日 61歳
芳英千代善女 利佐長女千代 明治31年10月3日生‐明治33年5月21 1歳8ヶ月


三田俊次郎先生伝 (後藤英二著)・抜粋

余談であるが、現在、青山墓地に吉田茂の墓はない。孫の吉田暁子によって吉田家代々の浄土宗で再供養され、横浜市久保山(光明寺内墓地)に眠っている。
青山墓地 直滋・文雄・吉田・三田

中田家
直慈 明治35年2月22日亡 享年56歳
ワカ 大正3年9月23日亡 享年58歳
二男文雄 明治30年8月1日亡 享年11歳

中田薫
昭和42年11月21日亡 享年91歳
榮(兄吉田茂)
昭和50年1月23日亡 享年93歳

三田家
定則 昭和25年2月6日 74歳
トミ 昭和33年1月11日 74歳
義勝 昭和55年3月18日 66歳
義治 平成7年5月11日 79歳
美代子令和3年10月6日 96歳7ヶ月

牧野伸顕
(吉田茂の岳父) の墓

吉田茂と親族の墓
(カトリック式)

吉田茂の墓
1990年時


吉田 茂 1967年(昭和42年)10月20日 享年90歳
叡光院殿徹誉明徳素匯大居士(横浜市久保山墓地)
吉田 健一 1977年(昭和52年)8月3日 享年65歳
文瑛院涼誉健雅信楽居士(横浜市久保山墓地)
墓の引越し (▽open) P88-P92
去る三月二十五日、祖父の墓の、東京青山から横浜市久保山への移転に伴う開眼供養を、特にお招きしたい方々や親族を招いて執り行った。
祖父の生前である昭和三十九年以来、祖父の記念となる活動を続けて下さった、「吉田茂国際基金」のこの三月末の解散と、この「墓の引越し」がたまたま時を同じくしていたので、感謝の印に、基金役員の方々にもご参列を願った。青山霊園に墓所を求め、祖母を埋葬したのは祖父で、二十六年後に祖母の墓の傍らに祖父の墓を建てたのは父で、二代の気持のこもった墓所をあとにするのはかなりためらった末であり、折りしも、開眼供養の案内状を発送しようとしていた三月十一日、東日本大震災が起った。

こんな時に横浜まで人を呼び出してよいものか、二日程迷い、墓所を移すべきではなかったかという考えも頭をよぎった。しかし、このあとの方の迷いは、祖父は不安と混乱の世で戦い、そして歴史に名を残した「乱世の政治家」だから、「住み慣れた」墓所からの引越しも(無論祖母同伴で)別に厭わないでくれるだろうと思い直した。引越しは、祖父がその二代目である吉田家の都合である。
 墓所の名義人という資格は祖父から父へ、父から母へ、そして兄がずっと外国暮しだったため、母から私へ引き継がれた。私は独身だったから、私のあとの墓所の引き継ぎ、が頭から離れたことはなかった。

吉田の血が絶えたわけではなく、亡兄はローマ大学の物理の教授で、妻はイタリア人で娘が一人居る。しかしこの娘はイタリア人と結婚して、二歳の娘もいるが、未だに日本語が喋れない。父には子供のいない姉と、子供のいる妹と弟がいたが、この姉弟は皆カトリックで、私にとっての従兄弟姉妹達も皆カトリックだ。
 つまり、神道の家から浄土宗の吉田家〈嫁いだ私の祖母が、上の方の子供達がかなり成長してからカトリックに帰依して、父以外の子供達が皆それに倣ったのである。
祖父はというと、内葬が東京の関口のカテドラルで行われ、洗礼名まであったことを憶えておられる方もまだあるかも知れないが、これは祖父に、死後に洗礼が授けられたからだ。死後であったことは記録に残っている。

 父はカトリックで内葬が行われるのを止めることはできなかったが、祖父の死後のことについて時々祖父と話していたのに、「改宗」の意志など全く祖父からは聞かされていず、だから死後洗礼は認めず、祖父の仏式の墓を青山に建てた。墓石の字は、吉田家菩提寺、つまり、吉田家初代健三が、友人の上郎幸八氏と共に開基した、吉上山光明寺のご先代のご仲介で、浄土宗の当時の宗務総長、小林大巖師からいただいた。
 勿論、同じ頃、立派な戒名もいただいた。吉田の血が絶えたわけではなく、父の弟の家は吉田分家である。しかし従弟達は、祖父のことは思っても、四十一という若さで死にながら養子(茂)も取り、大した財産を遺し、お寺まで遺した、そして吉田という家を興した、吉田健三とその妻のことはあまり思わないらしい。

父は幼い頃、母方の牧野の祖母に連れられて、大磯の、吉田健三の未亡人士子のご機嫌伺いに行った時のことを憶えていた。士子がお経を読む声がきれいだったと言っていた。その後パリから、「おばばさま、これはパリのバラでございます.とか、あるいは英国のどこかから、士子に絵葉書を出すのは父の役目だったようだ。
 私も吉田の従弟達も、健三から数えて四代目であゑ養子に劣らず優れた人間だった吉田家の初代を、四代目でもう忘れるのは勿体ないというか、美しくないというか、
信仰について家に縛られることはないが、祖父も父も、ともかく浄土宗徒だったのだから、吉田本家の、つまり浄土宗徒の流れの祀りは、初代健三の今に残る、いわばただ一つの事績であるお寺にお願いするのが良いと、一年前に思いつき、お寺に迷惑をかけないためにも、祖父母だけ東京に眠っていたのを、吉田家発祥の地、横浜に移すことにしたのだ。

 久保山の吉田家の墓所には初代健三、健三の実父母(渡辺謙七夫妻)、三代健一、健一の妹で茂の次女江子の墓石が並び、祖父母の墓を移すには手狭だったので、同じ霊園内の光明寺の墓地の一画を頒けていただき、そこに移した。

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