中田勝平


中田 勝平
昭和13年9月29日生 令和5年3月20日亡

俗歴
小学校4回 中学校2回 高校2回 転校
池田高等学校卒
東京経済大学卒
日本製靴株式会社勤務
相馬ミワさんの最後の面倒をみた



企業情報@Wiki
チヨダシューズ
【商号履歴】
チヨダシューズ株式会社(1957年2月~)
千代田機械製靴株式会社(1924年4月~1957年)
【株式上場履歴】
<店頭>1978年7月 日~1984年3月 日(店頭登録廃止)
<東証2部>1968年10月1日~1978年7月1日(資本の額不足)
<東証1部>1949年5月16日~1968年9月30日(2部に指定替え)
【沿革】
大正13年4月 千代田機械製靴株式会社を東京都墨田区に設立。紳士靴の製造販売を開始。
昭和20年3月 新潟県加茂市に工場疎開、新潟工場設立。戦災により本社工場全焼。
昭和24年3月 東京証券取引所に株式の上場認可される。
昭和26年12月 現ゼネスコ社との間に外資導入および技術援助契約を締結。
昭和29年3月 同社のブランド、「ジャーマン」を日本国内において、生産と販売を開始。
昭和32年2月 チヨダシューズ株式会社に社名変更。
昭和38年4月 埼玉県越谷市に越谷工場を新設し、東京工場を移転。
昭和43年8月 払込資本金10億2千万円を2億4百万円に資本減少。
昭和43年12月 第三者割当により、資本金9千6百万円を増資し、払込資本金3億円とする。
昭和46年12月 当社と日本製靴株式会社(現 株式会社リーガルコーポレーション)の共同出資により、共同の販売会社を設立し、両者の販売部門を統合する。











北海道への転勤後、道内50店舗の担当

右 三須義雄 チヨダシューズ課長(東日本シューズ常務)
左 中田勝平 チヨダシューズ係長・第二営業部部門長(北日本シューズ部長)
東京本社(東日本)北海道(北日本)仙台(東北日本)名古屋(中部日本)大阪(近畿日本)九州(西日本)
親会社(株)ニッピ→日本製靴(株)(リーガル)・チヨダ(株)
よく泊まりにきていた水島さんは元チヨダ事務主任(退職後、新潟県いなべ商店常務)
森さん(元山口自転車勤務)は勝平と同期入社で最後まで会社に残った。(最終・常務)

リーガル販促品
他にペーパーナイフやベルトのバックル等、部屋のどこにしまったのか思い出せない。


三田義治(J2IS)・発明家(ソニー創立メンバーの一人)
慶応大学卒業後、NEC輸出輸入課に勤務していたが退社し
井深大盛田昭夫と共に東京通信工業を設立。
当時、日本の空軍のレーダーは技術はなく使い物にならなかったため退任後イギリスのレーダーシステム(デッカ)の日本代理店を始める。 20万t~30万tの船への取り付けやメインテナンスも手掛けていた。

ヨシフ・スターリンが生きていた頃、外務省から頼まれ、ソ連に同行ていた時期があった。何をしに行ったかは、美代子さんは話せないと言っていたが、数年後の義治さんの話では、目的はソ連のアンテナの大きさや性能の調査だったと語っていた。

当時30億から40億の防空システムの売込みが目的で佐藤栄作総理の自宅に伺った際は、吉田茂の親戚だとと伝えた所、すんなりと部屋に通され総理の部屋のこたつの中で話をしたが時のひととの話にのまれ何も話せなく帰ってきた。後で友人にはひどく馬鹿にされたと語っていた。

昭和35年頃には国産のレーダーも良くなってきた。その頃には販売よりもデッカのレーダーの修理とメンテナンスを主にしていたらしい。
MiG-23函館亡命の話は新聞や雑誌は面白可笑しく書いてあったが専門家からすると真空管を使用するのは当たり前のことで、当時のアメリカの戦闘機等にも一部使用されていたし、技術力はアメリカもソ連も同等だったらしい。当時の技術で音速の2倍の2,500 km/hの速さを出せる技術があった時代でも、アメリカを含めレーダー等で真空管を使用するには理由があったらしい。今は当たり前になっているが当時、音を絵に変える技術等、義治さんは発明家として色々な特許を取っていた。


5歳時、母愛に連れられ、盛岡に単身赴任していた義治さんの父定則さんの部屋(学校の宿舎かぼろい旅館だった)へ行ったことがあるが定則さんと母が話し込んでいたのでそのまま寝てしまったらしい。その時、定則さんの妻トミさんは世田谷に住んでいた。
勝平が学生時代には、世田谷の三田家(300坪)の離れに下宿していた。勝平談

トミさんの逸話
勝平の父四郎が、東京の学会へ行った際、姉である三田トミの家に泊まった。 トミに何が食べたいか聞かれたたので寿司を食いたいと四郎が答えた。 出前で届いた寿司は当然ナマで、トミはナマの食べ物には色々なばい菌がついているので蒸かしてから食べなさい!と 弟四郎に言ったが、当然いう事を聞くわけもなく、寿司なんだから当然ナマだろと言って皆で食べた。 美代子さん(義治さんの嫁)は逗子の出身で当然ナマ寿司は好きだったが、姑のトミはナマものは色々なばい菌が ついているからと言って、魚は蒸かしてからというのが三田家の常識だったらしい。 その後、三田家の食卓にはナマの寿司が並ぶようになり、四郎さんにあれほど感謝したことはなかった。美代子さん談



三田義治さんとのエピソード1
東京通信機器からソニーへと社名も変わりソニーの株価も6000円を超えていた頃 創立メンバーだった義治さんにソニーへのコネ入社をお願いしたらしい。 義治さんから盛田昭夫氏に頼みに行ったところ既にコネ入社の人員が70人を超えていて、 義治さんから無理だわ~と言われた勝平。一応、試験会場だった青山学院に足を運んでみた勝平だが、 一般公募ではないのにも関わらず会場は70人を軽く超えていた。 試験問題もレベルが高すぎて全然解けなく交通費の300円を貰って帰ってきたらしい。

三田義治さんとのエピソード2
国鉄スワローズvs巨人戦の試合に行ってこいと義治さんに1000円ずつ貰った大学生勝平と高校生の輝男。 試合が終わったら帰りにビールでも飲みに寄りなさいと義治さんに言われ球場に向かった二人だったが 途中で引き返しお小遣いへと化した。試合内容はラジオの中継で把握。 後で告白したときには、そんな事だろうと思ったと義治さん。


モテキ到来


ガッツパブリカ 購入


遡り
勝平高校三年 
1955年発売 ヤマハの第一号車『赤トンボ』123㏄空冷2スト単気筒
購入価格¥138,000
金の出どころは当然、父四郎。



勝平15歳
ヤマトラッキー 90㏄ 2段変速
当時の販売価格¥55,000のところ、帯広の自転車店から¥76,000で購入。
(当時、大卒銀行員初任給¥5,500)金の出どころは当然、父四郎。
差額の¥21,000は陸送費や自転車店の手数料か?





RG12-27番

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