上野季三郎(旧姓中田)
上野季三郎(旧姓・中田)
元治元年3月6日生‐昭和8年2月28日没 享年70歳
明治22年 東京高等商業学校(一橋)第一期卒
明治25年 サンフランシシコ領事館書記 総領事
その後 ドイツ公使館の書記
香港領事 シドニー総領事を歴任
明治43年5月 宮内大臣秘書官 式部官も兼任
大正6年12月 宮内省大膳頭
昭和4年10月 依願免官従三位勲一等瑞宝章
妻 登久子
酔っぱらって朝帰りした四郎が季三郎おじさん宅(豪邸)の家の塀から落ちた際、かなりの鉢植えを割ってしまったらしいが、全く怒られなかった と四郎が言っていた。勝平談
国立公文書館アジア歴史資料
在留証明書
米国加州パロアルトニ在留スルコトヲ証明ス
↓
カリフォルニア州パロアルトに在留することを証明する
明治37年3月30日
在米国桑港(在アメリカサンフランシスコ)
大日本帝国領事上野季三郎
奥左團伊能、奥右伊玖磨、手前左から長女、郎子、旧姓上野美智子
上野富美
直球感想文さんから転写
左から夫人の春治、長男厚太郎夫人の冨美、厚太郎の長男昇一郎、厚太郎、夫人の実母喜勢、岡部長景、長女悦子、岡部長景の長男長衡、 加藤高明。
大正11年5月、下二番町の本邸で撮影。『加藤高明伝』より。
左上 大正6年中等科卒 右上 大正6年中学科卒
左下 大正7年中学科卒 右下 大正11年本科卒
左エイ(英子) 中央米子 右冨美
学習院女学部30期生 明治45年入学 年級中1
大正6年4月卒( 1917年)
薫さんが亡くなるまでは薫さん宅に来ていたらしい。
冨美 明治34年3月生(1901)
学習院女学部31期生 大正2年入学 年級中1
大正7年3月第卒(1918年)大正9年3月専修科卒(1920年)
右上 米子明治36年1月生(1903)
学習院女学部33期生 大正4年入学 年級中1
大正9年3月卒(1920年)
冨美 明治34年3月生(1901)
学習院女学部31期生 大正2年入学 年級中1
大正7年3月第卒(1918年)大正9年3月専修科卒(1920年)
右上 米子明治36年1月生(1903)
学習院女学部33期生 大正4年入学 年級中1
大正9年3月卒(1920年)
冨美 明治34年生
太郎 明治39年生
美智子 明治37生
三郎 大正2年2月生
エイ 明治32年生
二郎 明治44年生
美智子 明治37年11月生(1904)
夫 團伊能
左米子 夫 佐佐木行忠
中央エイ夫 服部玄三
右冨美 夫 加藤厚太郎
エイ 多摩霊園6区1種1側10番
冨美 青山霊園1種ロ8号1‐14側6番 昭和53年9月23日埋葬 享年75歳
米子 青山霊園1種イ21号8側番 平成19年9月9日埋葬 享年106歳
美智子 護国寺 東京都文京区大塚5-40-1 明治37年12月1日生 平成2年9月5日亡 享年85歳
長男 太郎 明治39年4月生(1906~1942)東大卒 昭和19年戦死
二男 二郎 明治44年4月生(1911~1944)長薬専卒 昭和20年病死
三男 三郎 大正2年2月生(1913~1945)東大卒 昭和20年原爆死
1933年2月28日亡(港区南青山墓地4月17日埋葬)
勅賜黙照圓通襌師總持孝道書
これは「黙照圓通襌師」という尊称を朝廷から賜った總持孝道という高徳な僧侶がこれを記しましたという意味らしい。
上野季三郎 元治元年三月六日生 昭和八年二月二十八日卒
彰德院殿寛道惟忠大居士 齡七十年
上野登久子 明治二年六月生 昭和三十二年一月二十日卒
恒德院殿寛貞惟順大姉 齡八十八年
恒德院殿寛貞惟順大姉 齡八十八年
弥平 嘉永六年八月生
妻その 安政四年三月生
五足の靴
中田直三郎 (養嗣子)
明治十年四月二日生
明治三十一年二月十九日 当町亀田愛宕町 長澤浩○弟 入籍
明治三十七年三月十五日 協議離縁 実家復籍届出 同日受付 除籍
日露戦争出兵の際には亡き直慈が贈ったドイツ製ツァイスの双眼鏡(乃木将軍も使用していた) を持っていき、横浜では親戚総出で見送ったらしい。
中田キミ (養女、養嗣子直三郎 縁女)
明治十二年十月八日生
明治三十一年二月十八日 当町亀田愛宕町 中田直慈長女入籍
明治三十七年三月十七日 協議離縁 実家復籍届出 同日受付
同年四月六日 東京市赤坂区戸籍 ○○利 入籍
○○○同月九日受付 除籍
長澤直三郎の足跡
野砲兵隊馬ノ調教ト兵卒ノ乗馬教育
明治41年4月10日発行 著者 長澤直三郎 東京市麹町区隼町34番地
発行所 陸参堂 東京市麹町区隼町34番地
砲兵輓馬ノ調教ト兵卒ノ馭法教育
明治41年6月17日発行 著者 長澤直三郎 東京市赤坂区青山北町5丁目20番地
発行所 陸参堂 東京市麹町区隼町34番地
官報. 明治42年3月25日 敍任及辞令 六級俸賜(以上三月二十四日内務省)
陸軍砲兵大尉 長澤直三郎
騎砲兵戦術の研究. 〔正〕
明治43年5月15日発行 著者 長澤直三郎 東京市赤坂区表町2丁目1番地
発行所 兵事雑誌社 東京市赤坂区表町2丁目1番地
騎砲兵戦術の研究. (続)
明治44年10月18日発行 著者 長澤直三郎 東京市赤坂区表町2丁目1番地
発行所 兵事雑誌社 東京市赤坂区表町2丁目1番地
大正11年9月1日調 陸軍現役将校寛役定年名簿索引 長澤直三郎 1040
藩命で江戸に渡り、平田篤胤の門に学んだ直慈は、武士から公職へと変わってゆく中、師が残した「天子天台、公家真言、公方浄土、武士禅、日蓮乞食、門徒それ以下」の考えに影響を受けたのではないだろうか。また、浄土宗の寺院を建立した安川繁盛と出会ったことも、曹洞宗から浄土宗への改宗を一層、促したと思われる。故郷を直吉に託して。
智明山 繁盛寺由来記
前住職が繁成寺の成り立ち・戦後の維持・修復や思い等を記している。
P42
繁成寺は建立時、新設の寺は墓地は二丁四方人家の離れたる地と定められ設けることが出来ず、青山共済墓地(現在の青山霊園)に求めた。寺号での許可が得られず、ひとまず安川繁成名義にて願い出、安川家より繁成寺へ寄附の形をとった。
深山法運私財、諸講社の寄付金、さらに安川末子氏生家、長崎市上野弥平氏よりの寄付金参拾円を合わせ百拾万円にて支払うと繁成寺明細記にある。
読売新聞-明治35年2月24日
安川繁成
正四位、勳三等
株式會社豐山護法銀行頭取日本鐵道株式會社檢査委員
天保十年三月五日 (1839)生
明治三十九年八月二十九日(1906)没 享年68歳
埋葬日 三十九年九月三日
妻 すゑ 嘉永三年三月生長崎縣平民上野彌平姉
青山霊園2-イ18号1‐8側1番(繁成寺墓地)
何らかの事情で墓誌に繁成さんの記載が彫られていないが改葬歴がない事からこちらに眠っていると思われる。
『人事興信録』データベース
株式會社豐山護法銀行頭取日本鐵道株式會社檢査委員
天保十年三月五日 (1839)
親名・続柄 安川八十吉の四男
家族 妻 すゑ 嘉永三年三月生長崎縣平民上野彌平姉
記述部分(略伝)君は群馬縣人安川八十吉の四男なり天保十年三月五日を以て生る戊辰の役大村益治郞等と共に勤王の大義を唱ひて功あり明治四年より官に仕へ同六年正七位に叙せらる爾來累進して工部大書記官に任じ會計檢査院檢査官會計檢査院部長等に歷任せり同三十年東京市參事會員となり同三十一年日本鐵道株式會社檢査委員となる同年衆議院議員となり目下前記の職にあり
養子新七郞(安政元年十一月生埼玉縣平民屋島八郞弟)は妻子と共に分家せり
職業 地主
明治十七年三月十五日 (1884)
家族 祖母 スヱ 嘉永三、三生、長崎、平、上野彌平姉
妻 滋子 明二〇、九生、神奈川、平、鈴木久彌二女
男 繁之 明四二、四生
記述部分(略伝)君は從三位勳三等安川繁成の嫡孫にして明治十七年三月十五日を以て生る繁成戊辰の役大村益次郞等と勤王の大義を唱へて功あり明治四年より官に仕ふ爾來工部大書記官會計檢査院檢査官同部長等に歷任し位階從三位に至り勳三等に陞叙さる後官を辭して野に下り東京市參事會員日本鐵道株式會社監査役株式會社豐山護法銀行頭取愛國生命保險株式會社々長等に擧けられ又衆議院議員に選はれ明治三十九年八月病を以て逝く君其後を承く方今所得税八百餘圓を納め區内有數の資産家として知らる
家族は前記の外長女繁代(明四五、七生)あり
養子安川隆治は分家亡父新七郞の後を繼き妹成(同一八、三生)は宮城縣人大藏省技師鹿又親に嫁せり
東京府平民
後備陸軍步兵中尉、宇都宮瓦斯株式會社專務取締役、株式會社中央商業銀行、足利瓦斯株式會社各取締役
明治十二年一月八日 (1879)
親名・続柄 岡田八十郞の子
家族 養母 まつ 明五、八生、長野、士松村秀一二女
妻 朝子 明一九、六生、亡養父新七郞二女、東京府立第三高等女學校出身
男 隆太 明四三、一一生
養妹 玉子 明三〇、一一生、實踐女學校在學
養妹 三千代 明三二、七生、第三高等女學校在學
記述部分(略伝)君は栃木縣平民岡田泉二郞の弟にして安川繁種は君の養兄なり明治十二年一月八日を以て生れ同四十年十二月先代新七郞の養子となり同四十二年一月家督を相續す先是同三十四年七月早稻田大學法律科を卒業して同十二月一年志願兵として入營し翌三十五年步兵少尉に任せられ同三十七年出征乃木軍に屬し中隊長代理として旅順奉天に轉戰偉勳を奏し步兵中尉に陞り勳六等に叙し功五級金鵄勳章を賜はる凱旋後日本鐵道株式會社に入り法規掛に職を奉し令名あり遂に故安川繁成の知る所となり安川民を冐すに至る同社の國有となるに及ひ東洋モスリン會社に轉し後宇都宮瓦斯株式會社創立に際し盡瘁する所あり其專務取締役に擧けられ現に其任にあり又前揭諸會社の重役を兼ぬ新進達織の實業家として斯界に重きを爲す君又文才に富み「血烟」「此血潮」の近著あり
家族は尚養妹美子(明四二、五生)あり
生年月日 元治元年三月 (1864)
親名・続柄
家族 妻 トク 明二、六生、養父彌平長女
男 太郞 明三九、四生
記述部分(略伝) 君は秋田縣士族中田直慈の弟にして法學博士中田薰は其甥なり元治元年三月を以て生れ先代彌平の養子となり大正七年家督を相續す明治二十三年東京高等商業學校を卒業し領事館書記生領事總領事宮内大臣祕書官式部官宮内事務官等に歷任し現に大膳頭たり
家族は尚三男三郞(大二、二生)あり
二女ヱイ(明三二、六生、女子學習院出身)は東京府人服部金太郞長男玄三に三女富美(同三四、三生、出身校同上)は伯爵加藤厚太郞に四女米子(同三六、一生、出身校同上)は侯爵佐佐木行忠に五女美智子(同三七、一一生、出身校同上)は東京府人團琢磨長男伊能に嫁し二男二郞(同四四、四生)は分家せり
竹内明太郞 東京市麻布區飯倉片町二七 明治36(1903)年4月
竹内綱 東京、麻布、笄町一四二 大正4(1915)年1月
中田薫 東京、麻布、笄町一四〇 大正4(1915)年1月
中田薫 東京、麻布、笄町一四〇 昭和3(1928)年7月
繁成寺 東京、麻布、笄町百二十六
上野季三郞 東京、赤坂、青山南町五ノ四五 大正4(1915)年1月
上野季三郞 東京、赤坂、青山南町五ノ四五 昭和3(1928)年7月
安川繁成 東京市赤坂區青山南町五ノ四八 明治36(1903)年4月
安川繁種 東京、赤坂、青山南町五ノ四八 大正4(1915)年1月
明治十年四月二日生
明治三十一年二月十九日 当町亀田愛宕町 長澤浩○弟 入籍
明治三十七年三月十五日 協議離縁 実家復籍届出 同日受付 除籍
日露戦争出兵の際には亡き直慈が贈ったドイツ製ツァイスの双眼鏡(乃木将軍も使用していた) を持っていき、横浜では親戚総出で見送ったらしい。
中田キミ (養女、養嗣子直三郎 縁女)
明治十二年十月八日生
明治三十一年二月十八日 当町亀田愛宕町 中田直慈長女入籍
明治三十七年三月十七日 協議離縁 実家復籍届出 同日受付
同年四月六日 東京市赤坂区戸籍 ○○利 入籍
○○○同月九日受付 除籍
長澤直三郎の足跡
野砲兵隊馬ノ調教ト兵卒ノ乗馬教育
明治41年4月10日発行 著者 長澤直三郎 東京市麹町区隼町34番地
発行所 陸参堂 東京市麹町区隼町34番地
砲兵輓馬ノ調教ト兵卒ノ馭法教育
明治41年6月17日発行 著者 長澤直三郎 東京市赤坂区青山北町5丁目20番地
発行所 陸参堂 東京市麹町区隼町34番地
官報. 明治42年3月25日 敍任及辞令 六級俸賜(以上三月二十四日内務省)
陸軍砲兵大尉 長澤直三郎
騎砲兵戦術の研究. 〔正〕
明治43年5月15日発行 著者 長澤直三郎 東京市赤坂区表町2丁目1番地
発行所 兵事雑誌社 東京市赤坂区表町2丁目1番地
騎砲兵戦術の研究. (続)
明治44年10月18日発行 著者 長澤直三郎 東京市赤坂区表町2丁目1番地
発行所 兵事雑誌社 東京市赤坂区表町2丁目1番地
大正11年9月1日調 陸軍現役将校寛役定年名簿索引 長澤直三郎 1040
藩命で江戸に渡り、平田篤胤の門に学んだ直慈は、武士から公職へと変わってゆく中、師が残した「天子天台、公家真言、公方浄土、武士禅、日蓮乞食、門徒それ以下」の考えに影響を受けたのではないだろうか。また、浄土宗の寺院を建立した安川繁盛と出会ったことも、曹洞宗から浄土宗への改宗を一層、促したと思われる。故郷を直吉に託して。
智明山 繁盛寺由来記
前住職が繁成寺の成り立ち・戦後の維持・修復や思い等を記している。
P42
繁成寺は建立時、新設の寺は墓地は二丁四方人家の離れたる地と定められ設けることが出来ず、青山共済墓地(現在の青山霊園)に求めた。寺号での許可が得られず、ひとまず安川繁成名義にて願い出、安川家より繁成寺へ寄附の形をとった。
深山法運私財、諸講社の寄付金、さらに安川末子氏生家、長崎市上野弥平氏よりの寄付金参拾円を合わせ百拾万円にて支払うと繁成寺明細記にある。
読売新聞-明治35年2月24日
正四位、勳三等
株式會社豐山護法銀行頭取日本鐵道株式會社檢査委員
天保十年三月五日 (1839)生
明治三十九年八月二十九日(1906)没 享年68歳
埋葬日 三十九年九月三日
妻 すゑ 嘉永三年三月生長崎縣平民上野彌平姉
青山霊園2-イ18号1‐8側1番(繁成寺墓地)
何らかの事情で墓誌に繁成さんの記載が彫られていないが改葬歴がない事からこちらに眠っていると思われる。
『人事興信録』データベース
安川繁成 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)▼
正四位、勳三等株式會社豐山護法銀行頭取日本鐵道株式會社檢査委員
天保十年三月五日 (1839)
親名・続柄 安川八十吉の四男
家族 妻 すゑ 嘉永三年三月生長崎縣平民上野彌平姉
記述部分(略伝)君は群馬縣人安川八十吉の四男なり天保十年三月五日を以て生る戊辰の役大村益治郞等と共に勤王の大義を唱ひて功あり明治四年より官に仕へ同六年正七位に叙せらる爾來累進して工部大書記官に任じ會計檢査院檢査官會計檢査院部長等に歷任せり同三十年東京市參事會員となり同三十一年日本鐵道株式會社檢査委員となる同年衆議院議員となり目下前記の職にあり
養子新七郞(安政元年十一月生埼玉縣平民屋島八郞弟)は妻子と共に分家せり
安川繁種 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)▼
東京府士族職業 地主
明治十七年三月十五日 (1884)
家族 祖母 スヱ 嘉永三、三生、長崎、平、上野彌平姉
妻 滋子 明二〇、九生、神奈川、平、鈴木久彌二女
男 繁之 明四二、四生
記述部分(略伝)君は從三位勳三等安川繁成の嫡孫にして明治十七年三月十五日を以て生る繁成戊辰の役大村益次郞等と勤王の大義を唱へて功あり明治四年より官に仕ふ爾來工部大書記官會計檢査院檢査官同部長等に歷任し位階從三位に至り勳三等に陞叙さる後官を辭して野に下り東京市參事會員日本鐵道株式會社監査役株式會社豐山護法銀行頭取愛國生命保險株式會社々長等に擧けられ又衆議院議員に選はれ明治三十九年八月病を以て逝く君其後を承く方今所得税八百餘圓を納め區内有數の資産家として知らる
家族は前記の外長女繁代(明四五、七生)あり
養子安川隆治は分家亡父新七郞の後を繼き妹成(同一八、三生)は宮城縣人大藏省技師鹿又親に嫁せり
安川隆治 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)▼
從七位、勳六等、功五級東京府平民
後備陸軍步兵中尉、宇都宮瓦斯株式會社專務取締役、株式會社中央商業銀行、足利瓦斯株式會社各取締役
明治十二年一月八日 (1879)
親名・続柄 岡田八十郞の子
家族 養母 まつ 明五、八生、長野、士松村秀一二女
妻 朝子 明一九、六生、亡養父新七郞二女、東京府立第三高等女學校出身
男 隆太 明四三、一一生
養妹 玉子 明三〇、一一生、實踐女學校在學
養妹 三千代 明三二、七生、第三高等女學校在學
記述部分(略伝)君は栃木縣平民岡田泉二郞の弟にして安川繁種は君の養兄なり明治十二年一月八日を以て生れ同四十年十二月先代新七郞の養子となり同四十二年一月家督を相續す先是同三十四年七月早稻田大學法律科を卒業して同十二月一年志願兵として入營し翌三十五年步兵少尉に任せられ同三十七年出征乃木軍に屬し中隊長代理として旅順奉天に轉戰偉勳を奏し步兵中尉に陞り勳六等に叙し功五級金鵄勳章を賜はる凱旋後日本鐵道株式會社に入り法規掛に職を奉し令名あり遂に故安川繁成の知る所となり安川民を冐すに至る同社の國有となるに及ひ東洋モスリン會社に轉し後宇都宮瓦斯株式會社創立に際し盡瘁する所あり其專務取締役に擧けられ現に其任にあり又前揭諸會社の重役を兼ぬ新進達織の實業家として斯界に重きを爲す君又文才に富み「血烟」「此血潮」の近著あり
家族は尚養妹美子(明四二、五生)あり
上野季三郞 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)▼
職業 大膳頭生年月日 元治元年三月 (1864)
親名・続柄
家族 妻 トク 明二、六生、養父彌平長女
男 太郞 明三九、四生
記述部分(略伝) 君は秋田縣士族中田直慈の弟にして法學博士中田薰は其甥なり元治元年三月を以て生れ先代彌平の養子となり大正七年家督を相續す明治二十三年東京高等商業學校を卒業し領事館書記生領事總領事宮内大臣祕書官式部官宮内事務官等に歷任し現に大膳頭たり
家族は尚三男三郞(大二、二生)あり
二女ヱイ(明三二、六生、女子學習院出身)は東京府人服部金太郞長男玄三に三女富美(同三四、三生、出身校同上)は伯爵加藤厚太郞に四女米子(同三六、一生、出身校同上)は侯爵佐佐木行忠に五女美智子(同三七、一一生、出身校同上)は東京府人團琢磨長男伊能に嫁し二男二郞(同四四、四生)は分家せり
『人事興信録』データベース▼
竹内綱 東京市麻布區飯倉片町二七 明治36(1903)年4月竹内明太郞 東京市麻布區飯倉片町二七 明治36(1903)年4月
竹内綱 東京、麻布、笄町一四二 大正4(1915)年1月
中田薫 東京、麻布、笄町一四〇 大正4(1915)年1月
中田薫 東京、麻布、笄町一四〇 昭和3(1928)年7月
繁成寺 東京、麻布、笄町百二十六
上野季三郞 東京、赤坂、青山南町五ノ四五 大正4(1915)年1月
上野季三郞 東京、赤坂、青山南町五ノ四五 昭和3(1928)年7月
安川繁成 東京市赤坂區青山南町五ノ四八 明治36(1903)年4月
安川繁種 東京、赤坂、青山南町五ノ四八 大正4(1915)年1月