中田揚子


中田勝平妻 揚子(旧姓松久)
昭和17年12月31日生‐令和3年11月22日歿
琴 生田流 名取 (松久武洋)
学研代理店経営
文化ペン字学会師範


平成二十年五月六日 昭妙寺で得度を取得 名「妙聖」
真言宗での戒名 蓮峰院揚彩妙聖禅尼位


2016.01.27






 







中田揚子所長
Gakken全盛期表彰写真
パートさん全員が一度はこの方の横暴さに泣かされた。
仕事ができる人はごまんといるが、30年以上経営を続けるには単に仕事の成果を出せるだけではなく、他に特別な何かを持っていないと 人はついてこない。それは信念からだったのか他人より欲が強いということだったのか。
王様という表現が一番近かったのかもしれない。



母貞子・長女揚子
貫道妙絃信女 中田揚子  昭和17年12月31日生
令和3年11月22日歿 行年80才

令和3年11月22日 生前からの意向を尊重し、浄土宗から曹洞宗へ改宗。戒名、過去帳の作り直しなど、最後まで宿題を残してくれた。
令和3年12月4日 新規過去帳作成最終見直しの際、曹洞宗宗務庁メモから中田家、三人の戒名と命日の記載漏れ等が見つかった。
令和3年12月6日 長男嫁の計らいで戒名に院号をつける事になった。流石気遣いも立派です。 本当に喜んでいると思います。院号の頭に慈愛の慈がついたんですから。
過去帳の月命日も直慈さんと同じ22日に記載されるそうです。 二男にも質問されました。何故いつも自分の部屋に四郎さんの写真ではなく直慈さんの写真を 飾っていたのだろうか?後から運命めいた理屈を期待していたのかも知れません。

曹洞宗おりく膳の配置 慈性院貫道妙絃大姉

同志社大学 北康宏教授から

生前、北教授に贈って戴いた京都の和菓子 老松の夏柑糖、食べた後の皮だけを元の形に戻し、葉っぱを載せ暫く飾っていました。 いい思い出です。

手持ちがなくお棺に一文銭しか入れなかったので、翌日天井に六文を送金しておきました。
後日気づきましたが、寛永通宝だと思って入れたお金は永楽通寶という銅銭だったようです。
あと多少多めに送金したので無駄遣いしないように!
別に船代の六文は天井に貼り付けておいたので忘れていかない事!

千鶴子さんから
沢山お世話になり、所長に出会った事でなんとか仕事をしてこれました。所長のあの溌刺とした才気煥発なトークがもう20年以上経つのにはっきり覚えています。
私にとって所長は神様ですが、永遠の弟子なんです自称ですが。私にとって戦友の将軍とも言える方でした。
ありがとうございました。(中文省略)




「積善之家必有余慶。積不善之家必有余殃。」
「易経、坤、文言伝」〔えききょう,こん,ぶんげんでん〕
「積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。」
「善ぜん(よいこと)を積み重ねた家では、その恩恵が子孫におよび、
不善ふぜん(よくないこと)を積み重ねた家には、その災わざわいが子孫にまで及ぶ。」

曹洞宗での戒名 慈性院貫道妙絃大姉
真言宗での戒名 蓮峰院揚彩妙聖禅尼位
令和三年十一月二十二日
揚子行年八十才




先祖の墓誌


北広島霊園 区画番号RG12-27番

令和4年5月17日中田家墓所施工完了(追加修正前)

令和4年6月21日中田家墓所(追加修正中)

令和4年6月26日 納骨式・開眼供養 執行曹洞宗秋田県龍門寺浅田住職

令和4年7月16日 真言宗昭妙寺・開眼供養

中田家過去帳
本人が気に入っていた写真だが実物とはだいぶかけ離れていた気がする。


妻 貞子
石井家長女嫁す
大正11年7月19日生
平成23年3月22日亡
行年88歳 AB型
恵灯院䆁貞香


八男 久一 (キュウイチ)
大正5年6月14日生
平成元年10月4日亡
A型 行年73歳

松久家 菩提寺 常楽寺
常呂町字常呂三七三
〇一五二-五四-二〇七四
浄土真宗 (本願寺派)に納骨堂 松久・兼田

▲TOPへ戻る

▲TOPへ戻る