砂子田家


愛の父 茂吉

長女 愛
明治35年2月3日生 昭和42年9月17日亡
夫 中田四郎
明治26年10月4日生 昭和52年2月24日亡


二男 泰三郎
明治39年8月25日生 昭和50年1月31日亡
いさごだ3代目   新婚旅行10か月間

妻 勢
大正2年8月5日生  成瀬南部鉄瓶屋の娘
嫁入り道具にピアノ
光照寺檀家代表として貢献(平成6年亡)

新婚旅行用トランクケース 
昭和8年か10年のオーダー品


砂子田勢 長男 良嗣
 
砂子田 良嗣・敦子 1
 2



 

愛と祖母ミワ
 

愛と祖父茂兵衛
 

ミワ・勢・長男 良嗣・茂兵衛・茂吉  元旦に座敷の縁側で泰三郎が撮影したと思われる。
 
茂兵衛
嘉永6年6月10日生
大正14年4月7日亡
菩提寺光照寺
(真宗大谷派)
ミワ
安政4年7月15日生
明治8年1月28日
中村与市長女嫁す
長男 茂吉
明治13年1月18日生
呉服商2代目
昭和13年5月5日亡(結核)
古登
明治14年5月30日生
明治33年12月15日
矢幅(やはば)専太郎壽以(スイ上野家より)の二女嫁す
昭和7年9月26日亡(赤痢)
長四郎
明治37年4月20日生
昭和6年9月8日亡(結核)
行年27歳
三男 幸四郎
明治42年3月1日生
昭和2年5月9日亡(結核)
享年19歳
卓男

泰三郎・セイの子
長男良嗣(故人)昭和10年10月29日生
二男 卓男 平成21年9月11日(故人)
三男 哲夫 平成31年11年15亡
妻  まりこ
長女 敦子 昭和12年2月24日生
夫  向原一雄(故人)
二女 典子 夫 太田善三(故人)白血病
三女 親子 夫 遠藤
四女 仲子 夫 吉田
 
盛岡タイムス・1993年4月1日
木材商、銀座から呉服商に
現在は一手に企業の制服を
本文▽ いさごだ(盛岡市肴町、砂子田セイ社長)は明治十八年に初代砂子田茂兵衛が十三日町(現肴町)に呉服商として創業した。砂子田は、藩政時代は南部藩の御用商人として木材の販売を行っていたが、その後、栗林村(現釜石市)や大迫町で銭座を始めるようになった。茂兵衛は呉服商を始める前までは、兄の源吉とともに銭座を経営、千人近くの人を使って鋳造し南部藩に納めていたが、幕末にやめていた。その後、しばらくたってからニ人は別々に商売を始め、源吉は中ノ橋通(当時は呉服町)で事務用品、茂兵衛は呉服屋を始めることになった。呉服商では、当初は日常に着る着物を販売していた。明治二十五年に盛岡女学校(現盛岡白百合学園高校)が設立されてからは、はかまの需要が伸び相当量の販売をするように、なり、呉服商としても地盤を固めながら発展していった。二代目の茂吉の代になると、呉服の販売をやめ作業着や盛岡病院 (現県立中央病院)の白衣、オーバーなど既製品を作るようになった。大正時代の東京では既製服の製造販売は既に行われ、大きな市場として拡大しており、二代目の茂吉はいち早くそれを感じ取り、盛岡で作るため本を読んだり東京の工場に出向いて製造方法を学んだ。店がある十三日町では馬市が開催されていた関係から、乗馬ズボンの製造(コールテン、ギャパで作った)を始めるようになり、これが大当たりとなり、市内のほか県内全域、他県にも卸すようになったという。店では既製品の卸し、小売りのほか、洋反物の卸しを行い、さまざまな布を扱うようになった。茂吉は、肴町の商店街の一角に工場を設立し、作業着の製造を行うようになったが業容の拡大に伴って、工場が手狭になったことから現在の亀半別館の向かいにある敷地(現在は駐車場)へ工場を移した。移転した工場には五十人近し女工が働き、設備についても当時では最新式だった米国製のシンガーミシン(電気ミシン)を購入し、大量生産を行うようになった。ミシンで布を縫っていたが、ボタンについては一着ずっすべて手縫いで行われていたという。そのころの品物は、洗濯して縮んだといわれないように水に布を漬けて詰めるだけ詰め、中のしんも同じように吟味してから縫っていたという。そのため、いさごだの作った作業服や白衣、オーバーなどの衣服は絶対に縮まないという評判になり、信用を高めていった。茂吉は業績を伸ばし、大正期に二階建ての大きな蔵を建てたほか、店舗も新築した。新築した店舗は、洋館風の建物で事務室は二階部分まで吹き抜けで、天井にステンドグラスの天窓、そこから立派なシャンデリアが取り付けられており、大正調の和洋を取り入れたモダンな建物。その後、昭和に入り戦争を経て三十年からは学生服と作業着、ユニホームの製造販売を肴町の現店舗で始め昭和四十年ごろから有限会社組織になり、現在では学生服、ホテルやバス会社、役所、その他一般企業の制服の製造販売を行っている。肴町の店舗は五十七年にアーケードの設置に伴い改築した。(荒川聡記者)
写真解説
本文▽ 呉服を商っていたとき初代が使った物差し(右)・大正時代に建てられ店舗の事務所として使われてきた部屋は、今も当時の姿を残している(中央)・明治、大正から昭和にかけて使われてきた土蔵(左)
流行がなく無駄のない学生服に注目
本文▽ 戦後になって三代目の泰三郎さんが昭和三十年に亡くなり、セイさんは「学生服は特に流行がなく、無駄がない仕事ではないか」と制服専門店いさごだとして名前を売り出した。学生服はその当時、上下が同じサイズで箱に入れて売られていたが、それをセイさんは全部箱から出して七号の上着に八号のズボンといったように買いにくる人の体形に合わせて売っていた。それが評判となり、たくさんの人が買いに来るようになった。セイさんは「学生服の卸しのほかに小売りもするようになった。上下別々に売るようになってから、みなさんの温かいお気持ちに助けていただき、子供七人を育てることができました」と当時を振り返る。現在では中学生はメーカーから仕入れるが、高校生の既製服は自社工場で製造、サイズによっては注文も受けている。そのほかホテルや・バス、白衣などユニホームの製造販売も始めた。小学生の割烹着、幼稚園児のエプロンなども扱っている。
戦時中は軍服製造も 戦後は一八〇度の大転換
本文▽ 第二次世界大戦が始まるころ、同社では授産所として軍服を製造するため、安庭の見石にある盛岡病院の看護婦寄宿舎を買い受けて、看護婦の寄宿舎をもっていって建てて工場として改造。工場では百人近い女工を使って巡査の制服や白衣、学生服などを作っていた。しかし、統制経済に入り、原料の布は配給制になったが、出回っていた布は、それまでのものに比べてひどく質が悪いものだったことから、三代目泰三郎はそうした布で製造するのを嫌い、わずかな良質な布だけを使って製造を行い、生産力は極端に落ちていった。同店では「高くてもいいから、品物はいいものを売らなくてはならないというのが方針、高くてもそれだけの値段のよい品物を売れば信用につながる」。これが創業当時からの方針と強調する。戦後、進駐軍が盛岡に入ってから大量に品物が入るようになり、最新式の機械も入り、進駐軍の兵士の軍服の格好が流行。「津波が押し寄せるように日本中の品物が大きく変化、服についても、それまでとは物の考え方を百八十度の大転換しなければならなかつた」という。


砂子田家お墓参り動画

1990年、光照寺 (盛岡市本町) 内墓地での砂子田家墓参りの様子。砂子田セイ(水色の服)、吉田仲子 (青い服) 、砂子田ミホ子 (赤い服) の案内があった。ここでお参りされているのは砂子田茂兵衛を初代とする墓基であり、茂吉夫婦、泰三郎等が祀られている。他に2ヶ所、砂子田家の墓がある。1つは、源六、源吉と続く本家の墓。他の1つは、最近自ら建立した、砂子田哲夫 (分家初代) の墓。


砂子田哲夫墓1

砂子田哲夫墓2

本家砂子田源六(二代)
栗林銭座経営者 (屋号きや)
鉱山名 栗林
高炉番号1
創業年月 慶応3年
経営者(慶応年末まで)支配人経営(砂子田源六)
稼働人員 604人(明治22年)
1ヵ年出銑量 10万寛
銀座開設年月 慶応3年5月

砂子田家系図
 

砂子田家紋だきみょうが
砂子は「わき水」という意味
菩提寺は七百年続いた尼寺光照寺(浄土真宗)

 栗林銭座跡
 県指定史跡
 二代砂子田源六
 調製図

慶応三年九月 栗林銭座経営者砂子田源六は南部藩から盛岡銅山銭鋳造を命じられ原母銭を製造していた。
毎年25両~30両を三方に載せて上納していたらしい。砂子田卓男(談)

 寛永通宝銭 背盛
 三厳堂 成瀬商店(セイさんの実家)

 砂子田セイ
 四女

 砂子田泰三郎
 砂子田卓男・中田勝平

 
  

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