中田四郎


四郎
明治26年10月4日生
大正11年8月15日 兄三郎死亡跡家督相続す
昭和52年2月24日亡 享年85歳浄信院観譽覺道居士
北海道美唄市 沼貝寺 (浄土宗 西山派)納骨堂


妻 愛(愛子)
明治35年2月3日生
岩手県師範学校附属小学校卒
盛岡高等女学校卒 (白梅高等女学校)
大正13年10月4日 砂子田茂兵衛孫嫁す
昭和42年9年17日亡 享年66歳 德信院観應浄愛大姉
昭和52年3月院号授与 (沼貝寺) 沼貝寺 納骨堂
砂子田家は弟 泰三郎が相続


俗歴
青山幼稚園・尋常小学校卒
早稲田高等小学校卒
東京開成中学校中退
逗子開成中学校卒
第七高等学校理系中退 (暑さと神経衰弱)
浪人 明治大学在籍 東京歯科大3か4番で合格
官立新潟医学専門学校卒 (数学得意 英語苦手)
浜田病院で産婦人科研修(東京神田)
サハリン町立診療所所長
岩手医科大学産婦人科医長
北海道大学外科助手 医学博士12年間(43か44歳)
三井炭坑病院(美唄) 整形外科 院長 (53歳)
新美唄の診療所に降格 (排斥53-55歳)
雄武病院 (1年間)北竜町町立病院 (4ケ月)
富良野協会病院 外科医で就任 (2〜3年)
釧路鉄道病院院長 (2〜3年)
池田町町立病院 院長 (勢力争いで敗北)
東鹿越 (南富良野)日鉄鋼材診療所
山辺の病院の後布部で開業 (67か68歳)
中田四郎・履歴書


明治37-5-6撮影
三田俊次郎41歳・養子中田四郎10.7歳
三浦自裕76歳・テル36歳・テル長女トシ0.5歳

明治29年3月31日 新田目次郎(一郎)養子縁組
明治35年2月22日 中田トミ父中田直慈逝去
明治35年9月12日 三田リサ逝去
明治36年1月26日 三田俊次郎・小泉テル 結婚
明治36年10月22日 新田目次郎(一郎)除籍
明治36年10月24日 関定則27歳 養子縁組
明治36年11月7日 三田定則及令トミ宛の葉書記録
明治36年     三田定則・中田トミ結婚
明治36年     三田定則・新田目次郎(一郎)13歳養子縁組
明治36年12月   テル長女トシ出産
明治37年5月6日撮影 中田トミ弟中田四郎10.7歳(養子)
普段、言う事の聞かない四郎も俊次郎が庭で餅を焼くと言う事を聞いたらしい(数年で返品)
撮影時、次郎(一郎)14歳は俊次郎とは離縁し三田定則28歳の養子となっている。

撮影 大正12~14年
義理の兄、定則に呼ばれ岩手病院産婦人科に勤務。
(研修時代の東京神田浜田病院や後の北大病院も定則の紹介によるもの)
岩手病院に出入りしていた魚屋の紹介で四郎と砂子田愛が出会い結婚。
砂子田家は3代続く呉服の老舗であり日本軍の軍服の他に、岩手病院の 白衣等の納入業者でもあった。
GHQによる岩手医専から新制大学への審査では砂子田泰三郎による功績があった。
下段中央・俊二郎 中段右から二番目・四郎

三田定則
明治9年1月27日生
昭和25年2月6日 74歳没
東京帝国大学教授
医学博士 
医師・三田俊次郎の挑戦
三田弥生

妻 トミ(旧姓中田)
明治17年10月23日生
昭和33年1月11日 74歳没
華族女學校15期生 明治31年入学 年級 初中2 明治36年7月卒(1903年)



四郎の父である中田直慈(1847‐1902)は1902年2月22日東京市青山にて脳充血で倒れ 56歳で死去。住まいであった宮内庁宿舎を出ることになる。
その当時、妻ワカ(1857)46歳、長男薫(1877)25歳、長女キミ(1879)23歳、 次女トミ(1884)18歳、二男文雄(1887)亡、三郎(1891)11歳、四郎(1893)9歳

写真の推測
写真右、四郎の隣が母ワカであることから左の女性と男の子を推測すると父である 中田直慈の死から10年後、1912年当時、四郎(1893)19歳、母ワカ55歳(1857‐1914) 57歳死去、長男薫の第一子、瑞彦 (1908)が4歳、と仮定すると、左の女性は 長澤家に嫁いだ長女キミ(1879)33歳か三田家に嫁いだ次女トミ(1884)28歳)の何れ かに絞られる。
父直慈が亡くなった後、三郎や四郎の学費や生活費の援助をしていたのが次女のトミ(三田)であるが、 長女キミ(長澤)も1908年4月東京市麹町区隼町34番地、同年年6月東京市赤坂区北町5丁目20番地、1911年10月東京市赤坂区表町2丁目1番地と居住地が近かったことから、左の女性は長女キミか次女のトミであると推測される。
四郎・定則
大正12年6月
岩手病院産婦人科医長就任
岩手医専
2代目校長 三田定則
昭和17年〜昭和25年


四郎 結婚親族  三田義正 ・サメ
生1893.10.3‐婚1924.10.3=31歳

愛 大正13年10月4日 砂子田茂兵衛孫嫁す
(生1902.2.3-婚1924.10.3=22.8歳)
ドイツから1929年(昭和4年)の消印
秦勉造
初代保全病院院長
北海道帝国大学医学部初代学部長
西川義英(右)
二代目保全病院院長
北海道帝国大学外科教授

中田四郎 
北海道帝国大学第一外科助手・札幌通信局外科診療所所長

三上二郎
三代目北海道大学教授(第一外科北大一期生) 指導医 中田四郎


北海道廳商工奬勵館(札幌商工会議所)


北海道大学外科助手時代のアルバムは勝平が大学に寄贈

厚生館








博士論文
中田四郎 [著]
タイトル
家兎脾臓レ線照射の血清リパーゼに及ぼす影響に関する実験的
研究並びに之に対する淋巴球の関係に就いて ID 500000029596
著者 中田四郎 [著] ナカダ シロウ ID 8000000029647

学位授与大学 北海道帝国大学 ID 0001
取得学位 医学博士 授与年月日 1936-08-08 昭和11年8月8日
学位 医学博士
授与年月日 1936-08-08 昭和11年8月8日
学位 医学博士
注記・抄録 博士論文
著者標目 中田, 四郎
分類(NDLC) UT51 UT25
資料形態 冊子体
資料種別 博士論文
データベース 国立国会図書館蔵書
請求記号 UT51-60-E541
国立国会図書館書誌ID 000000193910 報告番号(博士論文)
孫の博士論文







柳澤榮さんより中田愛様宛
原文

文して申上希(申し上げ)万須(ます)於近く尓(おちかくに)居りながら?いつも御無さ多(ごぶさた)のみに打過ますて誠に申譯も御座いません此の度も所長様の奥様のおともを致しましてお邪魔に〇〇〇多處存じが希もなくお目もじ可なひまして本當尓於な徒可しく(おなつかしく)お嬉しく存申上ました。今春あの様尓(に)主人可゛(が)御厄介尓相成りましてもお祝尓も伺ひ間世須(ませず)心尓以多しつつ(心にいたしつつ)御無礼の間々(まま)に過して居りまし多(た)阿の節者(あのせつは)本當尓あり難う存じまし多。同じ故郷の方尓於會ひ(おあい)い多し間春事にて(致します事にて)何登(なんと)楽しい事天゛(で)御座い間世う(ございましょう)色々登(いろいろと)御伺ひ致し度(たく)いるのみで於茶は(お茶は)どうでもいい様尓存じまし多程で御座いまし太(た)於嬢様可多登(お嬢様方と)御別連な左いまし多(おわかれなさいました)御心中於察し申上間須(お察しもうしあげます)でも先頃御健奈(おすこやかな)於坊ちゃ間(お坊ちゃま)於出来尓な里まして(おできになりまして)本当尓御結構尓存じ上間寸(ます)奥様毛(おくさまも)御元氣尓於見受(お見受け)いたしまし多し於っぱいも(おっぱいも)於豊登承里間春し(おゆたかとうけたまわりますし)赤さ満も(赤ん坊も)どん奈尓か(どんなにか)御幸多く(おさいわいおおく)御成長の御事と御喜ひ申上ま須(す)於小〇〇方いらっしやい間須(ます)處を王左゛々(わざわざ)於(お)遠々と御見送り迄頂きまし天(て)何とも恐れ入りまし多(た)おそ秋の日の暮れ易く於帰りは(おかえりは)嘸可し(さぞかし)御難儀遊者゛し(ごなんぎあそばし)皆様御待可祢で(おまちかねで)いらっしゃいまし多本当尓相春み間世んで(あいすみませんで)御座いました古ちらは(こちらは)山者゛可里天゛(やまばかりで)眺免(ながめ)の与い處(よいところ)とても御座いま世んけれど仰世の様耳(おおせのように)於暇尓でも(おひまにでも)承りまし多ら是非於越し下さい間春様(ますよう)於待知申上天(お待ち申し上げて)居り間須(ます)以つ゛れまた(いずれまた)機尓天゛も(おりにでも)恵間れまし多ら(めぐまれましたら)私も於邪まさせて頂き山々く尓の(くにの:ふるさとの)於話でも伺はせていただき度く(たく)楽しみ尓致して居り間須(ます)追々於寒さ尓(おさむさに)向ひ間須折柄御皆々様此の上とも御大切尓遊者゛し間須やう(あそばしますよう)念じ上希て居り満春(おります)末筆尓て誠尓御無礼な可羅(ながら)御主人様へも何卒於宜しう於傳へ上希下さいまし。
以上
十一月十七日  柳澤榮   中田愛子様  お前耳(おまえに)


長女 美保子
大正14年5月4日生
昭和11年2月16日亡 享年12歳 (結核)
美保子・博子二人ともに北大病院で息を引取り二人とも
四郎がタクシーで遺体を自宅に運んだ。
瑞譽妙美童女 (沼貝寺 納骨堂)

二女 博子
昭和10年1月10日生
昭和12年3月13日亡 享年3歳 (結核)
惠博善童女 (沼貝寺 納骨堂)


養子 満平(右)
昭和8年2月23日生(戸籍) 昭和7年7月頃生 (実際)
昭和28年3月4日 中田四郎・愛と養子縁組
妻 雅子
昭和8年6月13日生
昭和36年8月11日 伊藤信 長女嫁す

弟 勝平(左)
昭和13年9月29日生
家督相続す


四郎 勝平


内縁 樽井静枝
昭和22年9月15日亡 静譽美愛玅念大姉
沼貝寺菊田家納骨堂


尺八の先生・四郎


四郎・勝平
右側の掛軸は四郎の父、直慈の所有であったが兄の薫と形見分けしたらしい。
落款の上に書かれている署名には藤原為守謹寫と書かれている。
藤原為守・署名落款付 
署名:藤原為守 
上記は、【入江為守】:(1868~1936)明治ー昭和の書家、画家。京都生。冷泉為理の三男。貴族院議員、東宮侍従長、侍従次長の後、皇太后宮大夫兼御歌所長となる。
(藤原北家の支流御子左家の流れを汲む入江為守子爵)
署名に『◆藤原為守』と記載したと考えられます。
絵画は、多分伊勢物語の★東下りの絵と推測される。

掛軸に署名落款してある 「入江 (藤原) 為守」 とは、直慈が東宮主事であった時の東宮侍従長だった人物なのではなかろうか。

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