中田直慈


中田直慈
1847年 (弘化4年) 10月15日-1902年 (明治35年) 2月22日) は日本の宮内官僚
大正天皇皇太子時代の東宮主事、内大臣秘書官、宮内書記官等を歴任した。
17歳戊辰戦争で斥候として活躍。槍の名手
敦篤重厚 道を直角に曲がるような性格
藩校長善館教授

明治3年 藩命により平田篤胤に国学を学ぶ
大学南校(東京大学)に留学
明治7年 甲府勤番 ワカと結婚
その後大蔵省に勤務
明治17年〜鹿児島岐阜熊本の収税長を歴任
明治26年 宇都宮税務管理局長
明治30年 宮内省 内蔵助兼調度局主事
大正天皇の東宮主事
明治34年 内大臣秘書官 宮内省書記官を兼収
正五位勲四等 瑞宝章


妻 ワカ (和歌子) 甲府の旗本の娘
安政4年7月17日生
明治9年5月22日 葉山七郎妹入籍
大正3年9月23日亡 (享年58歳)
德夀院單譽仁和歌貞大姉

甲府勤番葉山七郎短冊
葉山七郎 甲府勤番
實父 中川鉄蔵 甲府勤番
實父祖父 中川万吉 甲府勤番
養父 葉山織部 甲府勤番
養祖父 葉山伊之助 甲府勤番


著書 中田直慈編 「島嶼見聞録」鹿児島県刊・明治

 墓碑銘1  墓碑銘2  墓碑銘3

(原文)▼ 五位勲四等中田直慈君墓碑銘
君諱直慈幼稱長吉後更久米蔵姓中田氏世仕亀田候 考諱曾平妣栗原氏弘化四年丁未十月十五日生幼好學通暁史籍長為藩學教授遷學監明治三年奉藩命來江戸學國典于平田篤胤之門已而廢藩置縣士皆解常職乃官山梨縣轉大蔵收税屬十七年以降歴任鹿児島岐阜熊本三縣收税長至宇都宮税務管理局長三十年轉内蔵助兼調度局主事後爲東宮主事遷内大臣秘書官攝宮内書記官初敍從七位累進正五位敍勲四等賜瑞寶章君天資敦篤重厚臨事不苟思而後言慮而後行是以在官三十年竟無一失措所在常有聲績平生儉薄自奉慈愛接人人莫不稱爲君子焉三十五年二月二十二日以病卒於東京青山之寓年五十有六葬于青山之墓域浮屠諡曰仁壽院行譽單直慈愍居士君娶葉山氏奉四子長男曰薫嗣次曰文雄夭次曰三郎次曰四郎有二女余與君相知相交于茲二十年一朝溘亡幽明永隔毎思之未曾不惻然今茲小祥期至嗣子薰來請銘義不可辭因据状敍梗概繋之以銘銘曰
敦篤重厚 在職循良 音容恍惚 青山之域 卜宅固蔵 鶴唳何處 暮雲蒼蒼
明治三十六年二月 内蔵頭従三位勲一等男爵 渡邊千秋撰竝書

(意訳)▼ 五位勲四等、中田直慈の墓碑銘
直慈は幼名を長吉といい、後、久米蔵と改めた。中田氏は代々、亀田候に仕えた。亡父は曾平、亡母は栗原氏で、弘化四年十月十五日に生まれた。幼いときから学問を好み、史籍に通暁し、長じて藩学教授となり、後、学監を務めた。明治三年、藩命にて江戸に上京し、平田篤胤の門人として国典を学んだ。その後、廃藩置県となり、藩士は皆、職務を解かれた。君は山梨県で官職として務め、大蔵収税属に転じ、明治十七年以降は、鹿児島、岐阜、熊本三県の収税長を歴任し、宇都宮税務管理局長に至った。明治三十年、内蔵助兼調度局主事となり、後、東宮主事を務めた。最後は、内大臣秘書官と宮内書記官の任務を果たした。従七位より累進し、正五位勲四等を叙され、瑞宝章を賜った。君の天質は敦篤重厚であり、どんな仕事もいい加減にすることはなく、よく思慮して後、発言し、行動していた。官職での三十年間は、一度の失敗もなく、行いはいつも評判が高かった。平生より質素倹約に努め、慈愛をもって人に接していた。人は皆、君子と称した。明治三十五年二月二十二日、病のため東京青山の自宅で倒れ、五十六歳で青山霊園に眠ることとなった。戒名は仁壽院行譽單直慈愍居士。君は葉山氏の娘を娶り、四人の男子を授かった。長男は薫。次男の文雄は残念ながら幼くして夭した。その後、三郎、四郎が生まれた。他に二人の女子を授かった。君と交友すること二十年、君は突然、冥土へと旅立ってしまった。このことを思うと、今も、心が晴れ晴れすることはない。君の一周忌に長男の薫が訪ねてきて墓碑の銘を依頼された。道義上、断ることができず、生前の君を思い起こし、ここに記す。
「君は人を思いやる心が篤く、どっしりと落ち着き、厚みのある人だった。職務にあっては、素直さや質朴さが表れていた。声や容姿は、うっとりと心を奪われる様だった。ああ、青山のこの地は、墓所として落ち着いたよい場所で、どこからともなく鶴の鳴き声が聞こえてくる。遠くに目をやれば、夕暮れの雲が蒼々とたなびいている。」
明治三十六年二月 内蔵頭従三位勲一等 男爵 渡邊千秋 選ならびに書す

[人物・経歴] 亀田藩士中田曾平の長男として、弘化四年に亀田城下徒士町に生まれた[1]。幼称は長吉。のちに久米蔵と改めた。幼より学を好み、史籍に通暁。学問に優れ、長じて藩学教授となり、後、学監として子弟の教育にあたった。
 明治三年、二十五歳時、鳥海弘毅、久野謙次郎らと共に貢士に抜擢され、藩命で江戸へ上った。国学を平田篤胤の門に学び、大学南校 (現東京大学) へ遊学した。明治七年頃、山梨県少属となり、大蔵収税属を経て、明治十七年より鹿児島、岐阜、熊本各県の収税長を務めた。
明治二十九年、宇都宮税務管理局長、明治三十年、宮内省にて内蔵助兼調度局主事となった。大正天皇皇太子時代には東宮主事を務めた。明治三十四年、内大臣秘書官となり、宮内書記官を兼収した[1] [2] [3] [4]。明治三十五年二月二十二日、東京青山にて脳充血で倒れ、五十六歳の生涯を閉じた。正五位勲四等に叙せられ瑞宝章を賜った[5]。その人となりは 「君の天資は敦篤重厚、事に臨みて苟もせず、思いて後言い、慮りて後行う。
是を以て官に在ること三十年、竟に一失なく、措らうところ常に聲績あり。平生倹薄、自ら慈愛を捧じて人に接す。人君子たりと称せざることなし。」 と墓碑銘に記されている。

[系譜] 第五回文化勲章を受章した法制史学者の中田薫は長男。政治家吉田茂の妹、榮は媳婦。法医学者の三田定則は娘婿。サンフランシスコ領事、シドニー総領事等を歴任した上野季三郎は実弟。 == 展示 == 岩城歴史民族資料館、亀田城美術館先覚顕彰館 == 脚注 == [1] 佐々木武二:郷土の発展に尽くした先人達 岩城の人、秋田、P139、平成18年 [2] 秋田県岩城町郷土史編集委員会:亀田郷土史 (下巻) 、秋田、P204、昭和 52年 [3] わたしたちの岩城町 (小学校社会科副読本)、岩城町教育委員会、P102 [4] 人・その思想と生涯 (37) 、あきた (通巻84号)、昭和44年5月 [5] 渡邊千秋:五位勲四等中田直慈君墓碑銘、東京 (青山霊園)、明治36年 2月




大正天皇、即位記念の壺
赤と青の番いの壺だったそうですが、直慈が亡くなったとき1つは薫、1つが四郎と形見分けしたそうです。しかし、空襲で薫さんの家が焼けてしいましたので、今は北海道の壺だけが残っている。


切子と言って手彫の技法だそうです。

中田直慈の足跡
明治30年職員録住所 麹,飯田,3‐22
(暁星学校 麹町区飯田町3丁目3-12番地 新撰東京名所図會明治31年11月25日発行第177號)
明治30年3月24日  任内蔵助兼調度局主事
明治33年2月12日 東宮主事
明治33年12月  実筆の転籍届(本人提出)秋田県愛宕町から東京市赤坂南町5丁目45番地に転籍 進退録2明治33年(転籍届)識別番号20839-2
明治34年12月10日 大臣秘書官兼内秘書官
明治35年2月22日亡 遺族からの死亡届 識別枝番20841-1 第28号
明治35年2月22日  直慈長男中田薫 東京市牛込区南榎町24番地
明治35年  東宮殿下贈賜録/明治35年 76号,77号 識別番号68748
明治41(1908)年4月 直慈長女キミ(長澤) 東京市麹町区隼町34番地
明治41(1908)年6月 直慈長女キミ(長澤)東京市赤坂区北町5丁目20番地
明治44(1911)年10月直慈長女キミ(長澤)東京市赤坂区表町2丁目1番地
大正4(1915)年1月 直慈弟上野季三郞 東京,赤坂,青山南町5-45


実筆の転籍届

宮内庁国立文書館
識別番号84225 貞明皇后実録編纂資料 貞明皇后関係切抜帳 中田直慈在職日誌1
識別番号84226 貞明皇后実録編纂資料 貞明皇后関係切抜帳 中田直慈在職日誌2
識別番号84227 貞明皇后実録編纂資料 貞明皇后関係切抜帳 中田直慈在職日誌3
識別番号84228 貞明皇后実録編纂資料 貞明皇后関係切抜帳 中田直慈在職日誌4

識別番号20839-2 進退録-2明治33年第292号のみ 実筆の転籍届(本人提出)
識別番号213-1 恩賜録-1 明治35年第18号のみ 両陛下からの恩賜禄
識別番号20841-1 進退録-1 明治35年第28号のみ 明治35年2月亡 遺族からの死亡届
識別番号68748 東宮殿下贈賜録/明治35年 76号,77号 識別番号68748 未請求

上ノ節 中田直慈献金ニ付廉々取調方宮内書記官ヨリ照会
内大臣秘書官兼宮内書記官従五位勲五等中田直慈叙勲ノ件・他
皇太子殿下来26日鎌倉御用邸行啓可被為在及通牒
職員録. 明治30年(甲)375‐30

産経新聞 孤高の国母▼open
(34)病床の父との対面 皇太子妃は憂心を押し隠した
2020/12/6 07:00 川瀬 弘至 有料会員記事
ライフ皇室
父、九条道孝の病状が悪化したとの電報を受け、節子妃を乗せた汽車が上野駅に着いたのは、明治33年8月25日午後2時10分である。 ホームで、東宮主事の中田直慈が待っていた。
「道孝公は本日未明、午前3時すぎに発作を起こされましたが、今は落着き、小康を保たれています」 節子妃は、ふうっと息を吐いた。
いったん青山御所に帰ると、嘉仁皇太子の生母、柳原愛子がおり、明治天皇と美子皇后(昭憲皇太后)からの見舞いの言葉を伝えた。
結婚以来、愛子が節子妃をかばい、何かと面倒をみてくれたことはすでに書いた。愛子のいたわりに、ここ数日の不安も、幾分やわらいだに違いない。
旅装を解いて化粧を直し、赤坂福吉町の九条邸へ赴いたのは午後4時半すぎ。家臣や女中らが腰を折って迎え、道孝の寝室へと通された。
日光田母沢御用邸にいるはずの節子妃が見舞いに訪れたと聞き、道孝は恐縮した。同行した女官の日記によれば、道孝は病床で、「大々御かしこまり入ニ御座候(ござそうろう)」だったという。
節子妃は、病気でやつれた父の顔に心を痛めつつ、会話できるほど回復していることに、胸をなで下ろしたことだろう。青山御所に戻ったのは午後6時40分だから、2時間近くも面会したことになる。
おそらく、こんなやりとりがあったのではないか-。 × × ×

病床から身を起こそうとした道孝を、節子妃が制した。 「無理をなさってはなりません。いまはゆっくり、お休みされることです」 実の娘とはいえ、いまは皇太子妃だ。道孝は「かたじけのうございます」と低頭し、再び身を横たえた。
布団を乱れを直してあげながら、節子妃が言う。 「食欲がないと聞きましたが…」 「はい。しかし昨日よりは、だいぶ具合もよくなりました」 「それはよかった。何かお食べになれば、もっとよくなるでしょう」 今度は道孝が聞いた。
「日光はいかがでございますか」
「とても楽しく過ごしております」
「せっかくのご静養を、台無しにしてしまい恐縮です。皇太子殿下にも大変ご心配をかけてしまったようで…」
「大丈夫。今日のご様子を報告したら、殿下もきっと安心なさるでしょう」
つとめて明るく答える節子妃だが、その笑顔にひそむ影を、道孝は察したかもしれない。
かつて道孝は嫁ぐ娘に、結婚すれば時には言葉に尽くしがたいほど心苦しいこともあり、身分が高いほど苦しさも増すだろうが、それを外に漏らし、家の乱れを自ら深めてはならない-と言い聞かせていた(※1)。
その教えを節子妃は固く守り、泣き言は口にしなかったはずだ。
「ご機嫌よう」(※2)
見舞いを終え、九条邸を出る節子妃は、平身して見送る家臣や女中らの目に、ひと回りもふた回りも大きく、頼もしく映ったことだろう。その夜、50人前の料理を九条邸に届けさせたと、女官の日記に書かれている。
この日、誰にも言えなかった憂心-。
翌日から節子妃は、夫のいない青山御所で過ごす。8月31日は結婚して初めて迎える嘉仁皇太子の誕生日。だが、節子妃は日光に戻らなかった。 × × ×

節子妃が嘉仁皇太子を、ひとりの男性として深く愛していたのは疑いない。一方で節子妃は、自分が嘉仁皇太子からどう思われているか、不安にかられることもあっただろう。なぜなら節子妃は、容姿には自信がなかった。
のちに皇族きっての美女といわれる鍋島直大(なおひろ)の次女、伊都子(いつこ)のような美貌の持ち主が嘉仁皇太子の前にあらわれると、さらに不安が増したはずだ。
嘉仁皇太子は、明治天皇のような超人的な威厳はないものの、人間的な魅力にあふれていた。思ったことを何でも口にし、行動するため、しばしば周囲を慌てさせることはすでに書いたが、身近に接したものの中には不思議とファンが多い。
伊都子もその一人だ。8月31日、嘉仁皇太子21歳の誕生日に、伊都子は日記に書いた。
「此日午後より昼夜二度に日光市人民より花火献上にて上る。美事なりし。萬歳。皇太子殿下萬歳々々」 同じ日-。
節子妃は東京の青山御所にいる。日光の嘉仁皇太子のもとへは女官を遣わし、祝いの言葉を伝えた。
青山御所には侍従長の徳大寺実則が参殿し、留守役の東宮侍従らとともに小宴が催された。節子妃は妻として祝賀を受け、立食をふるまった。
気丈に応対する一方で、胸の内はどうだったか。
そんな節子妃が、ようやく笑顔を取り戻したのは9月1日の夜か2日の朝だろう。日光から、伝言が届いたのだ。

--そろそろ戻ってきておくれ--(※3)。
実は嘉仁皇太子も、節子妃のことを思っていたのである。
3日午前6時10分、節子妃は青山御所を出て、上野駅から汽車に飛び乗った。
その車中、窓外を流れる木々や田園は、帰京の時とは別世界のように、輝いて見えたに違いない-- (論説委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)◇
(※1) この言葉を道孝は、節子妃の6歳年長の姉で山階宮菊麿王に嫁いだ範子におくったが、節子姫にも同様のことを語り聞かせたとみられる
(※2) 「ご機嫌よう」は御所言葉で、出会いや別れ、起床や就寝の時のあいさつ
(※3) 節子妃が日光ヘ戻った経緯について貞明皇后実録では《公爵九条道孝の病気も次第に快方に向ひつつあるにより、再び日光ヘ行啓あるべき旨皇太子より御内意ありたるを以てなり》としている

【参考・引用文献】
〇宮内庁編「貞明皇后実録」1巻
〇宮内庁所蔵「貞明皇后実録稿本6」収録の「中田直慈在職日誌」、同「行啓録」、同「典侍日記」
〇宮内庁所蔵「貞明皇后実録編纂資料・関係者談話聴取」収録の「小原辰三談話」
〇山階会編「山階宮三代〈下〉」(精興社)
〇主婦の友社編「貞明皇后」(主婦の友社)
〇安在邦夫ほか編「佐佐木高行日記-かざしの桜」(北泉社)
〇小田部雄次著「梨本宮伊都子妃の日記」(小学館)


中田直慈の漢詩(掛け軸)
七言絶句
桃李開時ふ競芳 蓮荷枯日始濤霜 階前満目秋蕭瑟 独有黄華晩節香 詠菊祝 山形大儒人華甲寿  直慈
参考:*詠菊祝・重陽(ちょうよう)の節句 9月9日 *華甲・還暦

(意訳)「桃李 は開花すると非常に美しく香が芳しいが、互いに競い合うことはない。蓮が枯れ、夕暮れには、霜がうねるように降り始めた。庭先には満月 (目となっているが意味が通じないので月で訳した) があり、秋風がものさびしく吹きすさぶ。独り黄色の菊が咲いていて、晩節の香を漂わせる。」山形の大儒が?還暦の重陽の節句に詠んだもの。 直慈

この詩は山形の大儒が詠んだものを直慈さんが書いた(書として)ものかもしれませんね。(曽孫談)
曽孫の意訳なので多少修正が必要かも。


中田輝男提供


三城勝彦・たけの提供
三城家との関係1
三城妙證 (旧姓中田妙證)中田太郎右衛門娘
三城伴蔵が中田半左衛門から持槍を譲受けた内容が過去帳に記されている。


図全街市田 亀藩旧 - 映音システム
中田直 13鷹匠町24 中田曾平 8愛宕町42 中田恭吉 5鶴岡澤18 中田對次 石脇其の他二寄留藩士
三城一郎 11徒士町14 三城傅次 13鷹匠町13 三城直円 13鷹匠町14 三城籐内 13鷹匠町16 三城清三郎 13鷹匠町17
鳥海弘毅 11徒士町4 久野政恒 13鷹匠町4 久野定衛 7上小路131


中田曽義?(中田薫祖父)・中田對次(中田直慈母方いとこ)・中田久米蔵(中田直慈初名)

当時、出入りしていた古本屋さんのネットワークからこれが見つかった時は、あの薫さんが飛び跳ねる位、喜んで話してくれたらしい。 あの薫さんがだぞ!と勝平談。

当時、初任給が数千円の時代、よくおじいさん(薫さん)に古本屋に付き合わされたが、当時数万円するこの手の古文書を惜しげもなくポンポンと 購入していたのでビックリしたと輝男さん談。

亀田藩中田家4系統
1、甚蔵→太郎右衛門→直 鷹匠町24
2、丈七→鉄三郎→対次
3、曽兵衛→大助→曽平 愛宕町42
4、新十郎→清八→泰吉 鶴岡澤18
※太郎右エ門娘(妙證)夫 野尻一郎右衛門=三城一郎 11徒士町14

三城勝彦さん提供の亀田藩地図:中田丈七 中田輝男さん提供の亀田藩地図:中田対次
図 全 街 市 田 亀 藩 旧 - 映音システム:
佐藤憲之宅  6代官小路10中田対次は石脇其の他二寄留藩士と記載


妙慶寺蔵地図 明治二十七年七月一日製
  (中田直、曽平、対次、中田泰吉 栗原善八 富地瑞温 記載)
亀田藩士族卒明細短冊62番・63番抜粋
73/168  中田直慈 父中田曽平 亀田藩
元高 拂六人扶持(モトダカ ハライロクニンブチ)
改正高 現米14石  生國羽後(カイセイダカ ゲンマイ14コク ショウコク ハネウシゴ)
天保12辛丑年六月十三日家督
養祖父 中田曽兵御 亡
養父  中田大助  亡
第二十大區一小區愛宕町(アタゴマチ)
士族 中田曽平 明治六年五十八歳
中田曾平の父 中田大助
中田大助の父 曽兵衛
このとき直慈は28歳位だが、58歳 の曽平が家督を継いでいる。
秋田 県公文書館の煙山さん談。

168/71
元亀田藩
元高 拂五人扶持(モトダカ ハライゴニンブチ)
改正高 現米14石 生國羽後(カイセイダカ ゲンマイ14コク ショウコク ハネウシゴ)
文久二土戌年五月十五日
祖父 中田丈七亡墓所頭相啓候
父  中田鉄三郎隠居非役
第二十大區一小區愛宕町
士族 中田對次(中田対次) 明治6年26歳
明治四辛未土月二、當縣其届他仰付候
箱館寄留二付
第二十大區一小區上鍛冶町 親類士族
親類士族 中田直尋代印
中田對次が箱館に寄留しているため、親類の直尋が代わりに届けた

168/67
祖父 中田甚蔵
父  中田太郎右エ門
第二十大區一小區上鍛冶町
中田直 明治6年76歳

162/71
祖父 中田丈七
父  中田鉄三郎
第二十大區一小區愛宕町
中田對次(中田対次) 明治6年26歳
第二十大區一小區上鍛冶町
親類士族 中田直尋

168/73
養祖父 中田曽兵御
養父  中田大助
士族  中田曽平 明治6年58歳
第二十大區一小區愛宕町

168/73 祖父 中田新十郎
父  中田清八
第二十大區一小區鶴町
中田恭吉 明治6年13歳

三城家過去帳
廷享 元子 三月什日
淳相同朴信士 俗名 中田半左衛門 葬 龍門寺
元 長 野尻市郎右衛門
妻 中田太郎右衛門娘 中田妙澄 寛保四巳正月四日没
三城伴蔵元成 文化五辰 二月六日没

62/162
亀田分士族卒明細短冊
第二十大區一小區徒士町
祖父 三城才助
父  三城段蔵
   三城一郎
中田 直 中田直慈 中田曾平 中田直尋 中田対次
三城専治 三城伝次 三城一郎
久野政恒 久野源五郎
亀田藩分限帳・御侍中順帳第一集・P49-P53
銃術師範 中田鉄三郎 中田曽兵衛
大番  中田曽兵衛
中田対次 中田太郎右衛門
亀田藩分限帳・御侍中順帳第二集 中田家

天鷺村物語
天鷺村物語 P376ページ
戊辰戦争 中田対次官軍として庄内藩に攻め入った際、決死隊として奮戦

中田曾平
文化13年11月2日生 明治16年6月24日亡 享年68歳
養父 中田大助 養祖父 中田曽兵衛
秋田県由利郡愛宕町41番地
明治23年 同郡愛宕町39番地
德乘院仁山義道居士(秋田 龍門寺・曹洞宗)

中田佐登(旧姓栗原)
文政6年1月23日生 明治24年1月16日没 享年69歳
24歳時、長男直慈、36歳時、直吉、41歳時に季三郎を出産
浄䑓院生應得心大姉 (秋田 龍門寺)

亀田藩 栗原善八 第二拾大区一小区亀田丁
明治5年以前 栗原善八姉入籍
(明治6年時、姉 佐登52歳 弟 善八49歳)

中田大助
安政2年3月8日(1855年)没
寄山道悟信士(秋田 龍門寺)

大助妻 安政6年6月25日没
智璨妙惠信女(秋田 龍門寺)

中田曽兵衛
天保11年6月28日(1840年)没
誠庵自聴居士(秋田 龍門寺)
秋田公文書館系図目録1抜粋

直慈
弘化4年10月15日生 明治35年2月22日亡 享年56歳 (脳充血)
仁壽院行譽單直慈愍居士
青山霊園(中田家墓基)向かって右奥が中田直慈殿のお墓

ワカ
安政4年7月17日生
明治9年5月22日 葉山七郎妹入籍
大正3年9月23日亡 (享年58歳)
德夀院單譽仁和歌貞大姉

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