中田薫



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温厚で頭が柔らかくリベラル
鰻 浄瑠璃 江戸文学が好き
第二高等学校 東京帝国大学卒
東京大学法学部教授 同法学部長
法学博士 ドイツに留学
学友吉田茂の麻布宅に在住
日本国憲法の作成に携わる
法制史学を研究 帝国学士院会員
貴族院議員 第五回文化勲章
正三位勲一等瑞宝章


中田薫・妻 榮は政治家吉田茂の妹   37.3.1 85才誕生日撮影

明治10年3月1日生
明治35年2月22日相続
昭和42年11月21日亡 (脳軟化症)
享年91歳 (青山霊園)
高學院薫譽壽光居士


明治16年12月7日生
明治40年2月25日
竹内綱 六女嫁す
昭和50年1月23日亡
享年93歳 (青山霊園)


吉田茂から妹、栄に宛てた手紙

拝啓其後取紛れ故?御無沙汰二候御機嫌尓存候御見舞旁かしぶし等持参被為致〇?於仁より有之申候間でに(までに)匆々(草々」  五月  茂  榮子左満(さま) 御前?
封書・十二月五日  吉田 茂

上記の手紙のオチ
鰹節は吉田茂から妹(栄)に送られ、その後四郎母(愛)へと送られ最後に鰹節を食べたのは四郎一家であった。

あばら家の吉田さん    恩賜賞を辞退す

緑会雑誌
大日本博士禄
▼Open 出版年月日 大正10-15
正五位勲四等。法學士(東大)
東京帝國大學教授(西洋法制史講座擔任法学學部勤務)。
東京帝國大學評議員。
出生 秋田県士族亡中田直慈
長男、後東京府は轉籍、明治十年三月一日生、同三十五年二月家督を相続す。

『學歴及閲歴』
明治二十一年鹿児島尋常師範學校附属小学校卒業、
同二十三年九月造士館補充科二級に入學、同二十六年七月家事上の都合にて京都第三高等中學校豫科に轉じ同二十七年七月三高廃止の都合となりし第二高へ轉學、同三十年第二高等學校卒業、
同三十三年七月東京帝國大學法科大學政治學科卒業、更に大學院に入り日本法制史を研究、
同三十五年四月一日任東京帝國大學法科大學助教授、
同四十一年三月文部省より法制史研究の為め、英佛獨の三ケ國に留學を命ぜられ、同四十三年法學博士學位受領、
同四十四年六月十二日、同九月比較法制史講座擔任、同十一月二十八日教授に擔任、
大正五年二月二十二日陞叙高等官ニ等、同年九月比較法制史を西洋法制史と改められる、
同八年四月官制改正、東京帝國大學教授、法學部勤務となり、引繽西洋法制史講座擔任たり、同年七月東京帝國大學評議員に選ばれる。
『學位』法學博士・受𦦲日附・明治四十三年十一月二十四日・東京帝國大學總長推薦。
『専門』法制史
『業績』大正九年五月帝國學士院より其著『我國法制發達史』に對し恩賜賞を贈𦦲せらる。
徳川時代に於ける村の人格(國家學會雑誌第三十五巻第九號)其他専門雑誌に發表せる論文顱る多し。
『著書』宮崎教授在職二十五年記念論文集其他。
『家族』母ワカ(安政四年七月生、靜岡縣士族葉山七郎妹)、
妻榮(明治十六年十二月生、東京平民竹内綱六女)、男瑞彦(明治四十一年二月生)あり。
弟三郎、明治二十四年八月生 弟四郎(明治二十六年十月生)は各分家したり。
『現住所』 東京市麻布區笄町一四〇。

勲二等中田薫外五名文化勲章授与の件


昭和21年2月11日 文化勲章授賞式▼Open
戦後初となる1946年の文化勲章は、俵国一、中田薫、仁科芳雄、岩波茂雄、宮部金吾、梅若万三郎の6人に授与されました。

俵国一(1872~1958)は島根県浜田市出身の冶金学者。伝統的なたたら製鉄の科学的分析を行って『日本刀の科学的研究』などを著すなど、和鋼と日本刀研究の第一人者でした。

中田薫(1877~1967)は法学者で元貴族院議員。日本法制史の研究に外国との比較という新しい方法を取り入れました。

仁科芳雄(1890~1951)は岡山県出身の物理学者。量子論の草分けであるニールス・ボーアの下で学び、量子力学・宇宙線・加速器を研究、日本の素粒子物理学を世界水準に引き上げました。

岩波茂雄(1881~1946)は長野県諏訪出身。岩波書店を創業し、『思想』『科学』『文化』などの雑誌や岩波文庫を創刊しました。日中戦争に批判的だったため軍部の圧力を受け、また戦時中は津田左右吉(1949年に文化勲章受章)の著作の発禁処分に関連して出版法違反で有罪判決を受けました。

宮部金吾(1860~1951)は、札幌農学校で新渡戸稲造や内村鑑三と共に学んだ植物学者。札幌農学校教授となり、植物園の初代園長も務めました。

梅若万三郎(初世)(1869~1946)は観世流能楽師で、明治の三名人といわれた初世梅若実の長男です。「華麗で輪郭の大きい強靱な演技」と評され、1937年の帝国芸術院創立と共に会員となっていました。

仁科博士は、1949年の日本ニュース『湯川博士をめぐって 東京・京都・ニューヨーク』にも登場して、湯川博士の業績についてコメントしています。また、これら6人のうち岩波茂雄と梅若万三郎は、受賞後間もなく世を去りました。

アカイさん記事

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中田薫の漢詩 七言絶句(薫さんが卒寿か米寿の時に書いたもの)
(原文 )
俗界昇沈夢一場 翻然皈臥旧僧房 磬鐘朝暮名峰響 門外行雲流水長
(意訳)
世俗の栄光や没落なんて一夜のはかない夢のようなものだ。そうであるならば、一層、思い切って官職を退き、旧僧坊へ帰ろう。
そこでは、朝な夕なと、鐘の音が山々に響きわたり、門外には、流れゆく雲と水がどこまでも続いているのだから。

徳川時代の文学に見えたる司法 中田薫著
挿画 宮武骸骨 
  評伝 宮武外骨
  木本至著 中田瑞彦氏談話 P.501
近代日本法制資料センター(明治新聞雑誌文庫,原資料部)


中田瑞彦・美枝

長男 瑞彦
武道家 (柔術2段 古武道)
獨協中学校卒
東京農大卒 (農業経済)
全国製粉
葛飾ガス役員
イラン協会 (出光外郭団体)理事事務長
明治41年2月5日生
平成8年8月16日亡
享年89歳(青山霊園)
法学院瑞譽道順居士

妻 美枝
大正6年12月5生

吉田健一作品集     吉田茂・吉田健一
第23巻 月報 1980.8▼Open
少年と青年前期頃の思い出
        中田瑞彦
 私と健一さんは、いとこの間柄である。私の母が健一さんの父、吉田茂氏の味だったからで、私の方が四つほど年長である。
私が青山学院中学部の四、五年頃の夏休だった。健一さんが、当時、麻布笄町にあった私の家に、一週間、預けられたことがあった。
それは余りにも蒼白く、女の子のように、ナョナョした少年の健一さんを、私に′鍛えて′欲しいという訳だった。
この依頼が、健一さんの母上からのものだったか、健一さんが幼時から始終、預けられたり、遊びに行っていた母上の実家、牧野伸顕伯爵家の老夫人(つまり健一さんの祖母)からのものだったかは、記憶にないが、その依頼を私は母から伝えられた。 その頃、健一さんは天津のイギリス人小学校で、すつかり英語をマスターして、日本に帰り、家庭教師(女性)について勉強中だった。
健一さんの父、茂氏は天津総領事から、外務本省勤務となり、麻布竜土町に家があったと思う。大正十年あたりの頃と考える。 私の父は東大法学部教授で、金持の筈はなかったが、その笄町の家は、なかなか大きく、邸内は五百坪近くあり、樹木の多い庭の外れを、裏隣りの雑木林中からの涌水が、小川となって流れていた。
その頃の私は暴れん坊で、庭の一隅には機械体操(鉄棒)の設備があり、前記の小川の手前には樹木の切れた空地が開け、私はそこで十二ポンドだかの砲丸投げをやっていた。
ボクシングもやっていたので、数組のグローブがあり、その他、何種類かのダンベル(鉄亜鈴)、エクスパンダーなぞもあった。
だから健一少年の鍛練・には、場所も道具も事欠かなかった。健一さんは午前と午後の二回、半ズボン、裸足姿で庭に出て、私の「コーチで鍛練をした。
健一さんの選んだのは、砲丸投げとボクシングだった。ヨチヨチ、フラフラしながらも、健一さんは砲丸を何メートルか投げ、グロープをつけて、ス・パーリングの真似をやった。
彼には本当に突かせ(?)たが、私はときどき彼のオデコを軽くパットする程度のものだった。
幾日か経つと、天津のイギリス人小学校で見たのか、健一さんはフェンシングもやりたいというから、庭の山吹をニ本、手頃の長さに切ったものと、紐で胸に縛った座ブトンを防具に、フェンシングごっこもやった。
木登りもやり、小川にも、とび込んだ。一週間の鍛練を無事終了し、真黒に日焼けした健一さんは、ごほうびでも約束してたのか、ニコニコしながら帰って行った。
いま考えて見ると、あのスポーツを嫌いの健一さんが、スポーツの真似事をしたのは、生涯、あの一週間だけだったのではなかろうか?
それから何年か経ち、健一さんは中途編入の暁星学を卒業、ケンプリッジ大学に建築学修得のために留学、一年足らずでホーム・シックにかかり、帰って来た。
やがて健一さんは、英文学研究を志望し、世田ヶ谷の桜新町の小住宅(借家)に住むこととなった。その頃、渋谷駅(省線。いまの国電)近くから出ていた玉川電車の沿線で、その辺は緑蔭の多い、閑静な、勉強には好適のところだった。
健一さんは、牧野伯爵家からつけられた吉野さんという年配の女中さんと、二人だけの生活だった。その頃、健一さんの父、茂氏は駐イタリヤ大使で、 母上も他の子供達(姉、妹、弟)と共に、彼の地に在ったから、健一さんは孤独の身の上だった。昭和五年頃と考えられる。
私は当時は渋谷にあった東京農大の学生で、ときどき、健一さんの桜新町の家に遊びに行ってたが、その内に彼は私が訪ねると、(パンを沢山出して、勧めるようになった。
量もそうだが、そのパンの種類の多いのには、私はビックリした。餡パン、クリーム・パン、ジャム・パン、ブドウ・パン、ロール・パン等々、当時の菓子パンの全種類が、そこにはあった。
吉野さんも、そのパンの始末には、困り切っているような素振りだった。
やがて、その過剰パン存在の理由が、解明される日が来た。初夏のあるタ方、健一さんからの連絡で、渋谷駅近くの契茶店に行くと、健一さんが、告白をしたのである。
それによると健一さんは、東横線渋谷駅の構内にその頃あった東京パンというパン屋の売店の売子嬢に、熱烈な思いを抱くようになり、毎日、何回も、その売店に行き、菓子・パン類を買い込むとのことだった。
健一さんは、なんとかして彼女と外で会い、話がしたい。そのために智恵を貸して欲しいという。その表情は真剣そのものだった。
その頃、柔道に夢中だった硬派青年の私に、その頼みは甚だ難題だったが、とにかく一度、′敵状視察という訳で、契茶店を出て、私は健一さんと、その東京パン売店近くまで行き、二人いる売子譲のどっちが、健一さん憧れの的なのか、ソッと教えて貰った。
細っそりした美少女で、頬にホクロがあり、どこか健一さんの母君に通う面影があった。
それから私達が、宮益坂の方へブラブラ上って行くと、一軒のレコード屋に、日比谷公会堂で開催の、当時、来朝中のなんとかいうバイオリニストの夜間演奏会の切符の前売広告が出ているのに気がついた。
私は瞬間的思いつきで、その切符を二枚買い、一枚を彼の売子嬢に進呈し、当夜、健一さんが、会場で彼女を待つよう、私としては、精一坏の智恵をつけた。
私は先刻の喫茶店での話から、彼女の店は夜、割りと早くから閉めることを知っていた。ところが数日後、健一さんに会うと、すっかり意気 銷沈の姿である。 「お店の規則で、お客様からは、このようなものは戴きません」と、売子嬢は素気なく、切符を押し戻したというのである。
私は大いに責任を感じ、途方に暮れたが、数日後、学校でKというラグビー選手の仲の良い友達に、私の困惑を話すと、彼は東京パン売店の売子嬢は二人とも、懇意の仲だという。
それは当時、農大ラグビー部のグラウンドが東横線の元日吉にあり、K達ラグビー部員は、そこの行き帰りに始終、その売店でパンを買い、売子嬢二人とは順馴染どころか、冗談もいい合う、という次第だった。
これは全く渡りに舟で、早速、健一さんに話すと、よろしく頼むと大喜びだった。
だが、特命全権大使Kのホクロのある方の東京パン売子嬢との交渉結果は、全く香しからざるものだった。
Kによると売子嬢は、「ああ、あの一日に何回も来る変なひとのことですか。まあ、あのひとが、そんなにお偉い外交官のお坊っちゃんなんて、それ本当ですか、あんな変なひとが……」と、変なひとの一点張りで、全く望みなし、だというのである。
その頃、健一さんは二十歳前、当時、その年頃の良家の思息子は学生服か、カスリの着物姿が一般だった。
ところが彼は、パリッとした背広姿で、籘のステッキなそをつき、ソフトや、夏はカンカン帽(ストロー・ハット)なぞをかぶっていた。言葉づかいも、牧野伯爵家の影響か、貴族言葉という奴で、女性的なほど丁寧だった。
年に似合わぬイギリス若紳士スタイルで、年中ブラブラしているみたいな健一さんが、日に何回も現れて、「あのう、このパンとこのパンを下いません」なぞというのだから、パン屋の売子譲の眠には、変なひとに映ったのも無理はなかったであろう。
万策つきた私は、Kと相談の上、あの売子第には約束したひとがいる′ということにして、健一さんをゴマかした。
健一さんの失落、胆振りは、見るも痛々しかった。私は、その健一さんの傷心を一時でも、まぎらわせようと思い、それから何回か、ビヤ・ホールやおでん屋に誘った。
健一さんは生れて初めて口にしたビールや酒を、深刻な順で、急ビッチに飲んだ。
どうも、これが健一さんが酒に親しむようになった発端であったらしい。
とにかく、健一さんは、それから、酒は飲みつつも、ひたすら、本格的文学修業の道を歩んで行ったようで、私も間もなく、学校を出て社会人となり、二人の交遊は全く、社絶してしまうこととなった。
私がそれから、健一さんに再会したのは、終戦後しばらくしてからだった。 その頃、鎌倉にいた健一さんは、ある真夏の日曜日、文京区水道端の焼跡の私のバラックにやって来た。それは、その頃はまだ健在だった私の両親への表敬訪問らしかった。
すでにを宰相御曹子.となり、文名ようやく世にきこえ出していた健一さんは、そのとき、海軍の戦闘帽に水兵用半袖シャツ、兵隊ズボンに兵隊靴という珍妙なスタイルで、リュックまで背負って現れた。
私の、いまは亡き健一さんへの思い出は、不思議にも、どれも夏の日に、つながっている……。
(一九八〇・七・五)


竹内綱・瀧・榮
銃器一件口供書 二
人事興信録 竹内綱 [明治36(1903)年4月] ▼Open 職業 衆議院議員(高知縣選出)、京釜鐵道株式會社取締役、芳谷炭礦株式會社專務取
生年月日 天保十年十二月二十六日 (1840)
親名・続柄 竹内吉管の長男
家族 妻 たき 嘉永三年九月生大阪府平民富田九平長女
女 榮 明治十六年十二月生
同 とも 明治十八年十一月生
男 廣 明治二十一年八月生
君は土佐山内侯の家人吉管の長男にして天保十年十二月二十六日を以て生る戊辰の役幼主陽太郞を輔けて東北地方に轉戰し平定後大阪に於て貿易に從事し數萬圓の損失を蒙りしも後機を得て數萬の利を得明治三年大阪府典事と爲り同七年後藤伯の蓬萊社に入り其社長と爲る西南の役私に爲す事あらんとして露はれ國事犯に處せられ在獄一年餘にして出獄し後自由黨の組織に鞅掌して常に板垣伯と其進退を俱にし同二十三年高知縣より選ばれて衆議院議員と爲り第二議會解散の後身を實業界に投じ同三十一年再び衆議院議員に選ばれ第十二議會解散後之を罷め專ら實業に從事せり男明太郞(萬延元年二月生)は父吉管の跡を繼けり
住所 東京市麻布區飯倉片町二七



中田榮(旧姓竹内)






手紙98年4月13日消印




大正6年12月5生(1917) 100才誕生日撮影
 
  輝男さんと真司 98.3.29 
輝男さんからの手紙
輝男さんと勝平 94.5.21

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